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ピース・パゴダ(サンフランシスコ)からハワイ移民記念館(博物館明治村)へ ~つながる世界~

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2022/06/24

ピース・パゴダ(サンフランシスコ)からハワイ移民記念館(博物館明治村)へ ~つながる世界~

明治村学芸員

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金沢市谷口吉郎・吉生記念金沢建築館とのご縁

博物館明治村2丁目にある第四高等学校物理化学教室の一室にある「谷口吉郎・土川元夫顕彰室」。そこには谷口吉郎氏設計のピース・パゴダの建築模型が展示されています。このピース・パゴダの模型は金沢市の谷口吉郎・吉生記念金沢建築館の所蔵作品で、同館と博物館明治村の連携協定に則って、明治村が借用、展示させていただいています。

 

ピースパゴダ (谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 所蔵)

 

 

ピース・パゴダと聞いても耳なじみがないかもしれません。パゴダ(pagoda)は東洋における宗教建築の塔を意味する英語です。

 

 

 

 

 

サンフランシスコのピースパゴダ

1960年代、アメリカ・サンフランシスコ市で、かつて日本人町だった場所に日本文化貿易センターを建設する都市再開発案をサンフランシスコ市当局が決議し、1965年3月に起工式が行われました。ショッピングモールやホテルなどの建設が予定された日本文化貿易センターのシンボルとして位置づけられたのが、このピース・パゴダ(平和塔)です。日本文化センター全体の設計は日系の建築家ミノル・ヤマサキがその任にあたり、ピース・パゴダの設計は明治村初代館長の谷口吉郎があたりました。

なぜピース・パゴダを設置するに至ったのか、その経緯を谷口は次のように述べています。

当時から遡ること百年前、「1860年木村摂津守や福沢諭吉らが軍艦咸臨丸に乗り、ポーハタッン号※1ではるばる太平洋を渡った遣米使節新見豊前守の一行がサンフランシスコに達した時より百年、日米間の友好に尽力した多くの人々の努力を記念するとともに、更に太平洋の平和を末永く祈願する親善の精神を表現しようとするものである。1951年には対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)がこの地で締結されたことも奇しき因縁といえよう。その点でニューヨークの港にフランスから贈られた「自由の女神」がそびえているように、この塔も平和のシンボルとして市の日本センターの広場にたってアメリカ市民をはじめ、同市を訪れる世界の人々に親しまれるであろう※2。」と。

上記3点の出典:国立国会図書館デジタルコレクション「万延元年遣米使節図録」より

この塔は日本の寺院にある三重塔や五重塔などとは異なり、円形の屋根になっています。これは奈良時代に平和を祈念して造られた百万塔から着想されたものです。百万塔は764年に起きた藤原仲麻呂の乱の後、このような乱が二度と起きないようにとの願いを込めて、時の天皇称徳天皇が高さ30センチほどの木製の塔を百万基造ることを決めました。770年に完成した百万塔は奈良を中心とした十の寺院に配られ、現在は法隆寺に伝わる四万基余が確認されるのみです※3

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(httpscolbase.nich.go.jpcollection_itemstnmH-4632locale=ja)

 

谷口吉郎はこの百万塔に、日本人の「美を愛し」「平和を願う祈り」が込められた形であることを見出していました。そこで、谷口吉郎は木で造られた百万塔をもとに、当時最先端の建築技術を用い、現代人の力強い平和心を表現する新たなピース・パゴダをデザインしました。そして、そのピース・パゴタは日本古代の神聖な形である前方後円墳を象った池の中に建てられています。ピース・パゴダは途中、資金難などの困難に直面しましたが、1968年3月、大阪の企業や人々の寄付を得て、竣工しました。冒頭の雑誌『日本とアメリカ』の表紙画像がその時の様子です。

五重塔の献納祝典は1968年9月に経団連前会長石坂泰三氏(当時)はじめ日本から70名余りの参加者を交えて執り行われました。

 

ピースパゴダの絆が、ハワイ移民記念館へ

このサンフランシスコの日本貿易文化センターの事業を推進したのが、ハワイの日系実業家・時岡政幸(TOKIOKA, Masayuki)氏です。ピース・パゴダをきっかけに時岡氏の知己を得た谷口吉郎は、明治初年に果敢に海を渡った移民の不屈の魂を伝えるべく、ハワイにある日系人ゆかりの建物の調査を時岡氏へ依頼します。

時岡政幸氏(1897-1998)は、岡山で生まれ、12歳の時に父親が働いているハワイへ渡り、ハワイ大学を卒業後、ハーバード大学で日系人として初めてMBAを取得しました。その後、彼はハワイへ戻り、いくつかの保険会社や不動産会社の設立にかかわるだけでなく、サンフランシスコのピース・パゴダ建設のほか、1987年ハワイの日本文化センターや日系人の歴史を伝えるビショップ博物館の資金集めにも貢献した実業家です。

時岡氏の声掛けで「ハワイの日系人が故国へおくる共同の贈り物として※4」明治村への移築が決まったのが、ハワイ島ヒロに建てられた教会堂で、現在のハワイ移民集会所(移築時の名称は ハワイ移民記念館)です。建物は1968年夏に解体され、日本へ船で運ばれ、翌年5月に竣工。多くの日系人の協力で、解体や輸送にかかる費用等が賄われました。

移築竣工時のハワイ移民記念館

1969年9月30日に、国内のみならず、ハワイの日系人、初の外国人力士でハワイ出身の高見山関を招いて、盛大に開館式が挙行されました。もちろん時岡氏も参列し、列席者を代表して玉串奉奠をされています。

ハワイ移民記念館開会式当日の様子(1969.9.30)

村内をパレードする高見山関

開館式当日の記念館内の様子。参列者はレイを身に着けているのが印象的。

この建物の移築を記念した図録に谷口吉郎は次のような言葉を残しています。

「この建築には一世時代の移民魂と、その精神をつがれた二世三世の、故国への愛情がこもっています。遥か太平洋の彼方から「ふるさと」へ寄せられた、切なる思慕の情といえましょう※4。」

 

赤い糸で結ばれた?! ハワイ移民記念館と阿川佐和子村長

そして時岡氏と明治村とのつながりはまだまだあります。明治村第4代村長の阿川佐和子村長の著書『強父論』に何と時岡氏が登場するのです。

『強父論』の中に、初海外旅行の阿川村長が、お父様(故阿川弘之氏)とハワイへ旅された話が掲載されています。阿川村長がお父様と合流する前に一人でホノルルに滞在していた時にホストファミリーとしてお世話して下さったのが時岡氏だったのです。

時岡氏についての記載はわずか8行ほどですが、「ハワイの時岡さん」という文字を発見した時の驚きは、えも言われません。

ピースパゴダが紡いだ時岡氏と谷口館長の絆、ハワイ移民集会所、阿川村長…と目に見えない「赤い糸」で、明治村と多くの人々が海をも超えて幾重にも結びついているのを実感させられました。

撮影 枦木 功

脚注

※1 一般的にはポーハタン号 (USS Pawhatan)と標記されるが、原文のまま引用。

※2「平和塔(ピース・パゴダ)」(『谷口吉郎著作集 第五巻 作品篇2』1981年 淡交社  初出『太平洋市民』(1965年6月)

※3 京都国立博物館ウェブサイト 2021年12月24日閲覧

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/hyakuman.html

奈良国立博物館ウェブサイト 2021年12月24日閲覧

https://www.narahaku.go.jp/collection/823-0.html

※4 「ハワイ建築の明治精神」『ハワイ移民記念館開館記念展』(1969年9月)

 

 

 

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