記者
明治村学芸員
2026/07/11
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明治村学芸員
二十四節気にそえて 11
「三」と「川」 その1
どうでもよいことですが、このタイトルを考えてふと気づいたことがあります。漢字の
「三」を90度回転すると「川」になる、と。
<「三」と安田善次郎>

2丁目のレンガ通りに面した安田銀行会津支店。黒い壁に腰までのなまこ壁、会津特有の「蔵店(くらみせ)」づくりで、窓には鉄格子がはまり、どっしりとした存在感を放ちつつも、赤い釉薬(ゆうやく)瓦が重苦しさを軽減しているように思えます。雪が多いところだからこそ、釉薬瓦が使われているのでしょう。
もう20年ほど前になるでしょうか。会津若松へ行った際、この蔵店づくりの建物が街なかに数多くあるのを見て、タイムトリップというよりは、まさにタイムスリップしたような衝撃を受け、「会津若松の方は明治村へ来られても、違和感なく日常の延長のように感じられるのではないか」と思ったことを記憶しています。
そんな会津若松にあったこの銀行の建物は、街並みとの調和を考え、周囲に違和感を与えない外観となっています。銀行としての機能を果たす鉄格子、そして安田銀行であることを誇示するでもなくさりげなくその存在感を知らしめているのが、安田銀行の行章「分銅に三」です。

分銅は江戸時代の両替商(金融業)のシンボル、時代が下った現代でも地図の銀行の記号にも採用されています。しかしその中にある文字は「安」でもなく「田」でもなく、「や」でもなく、なぜか「三」。実は、この「三」は平安時代の公卿で漢学者の三善清行(みよしのきよゆき/きよつら)に由来しています。

安田の軒先瓦
三善清行の子孫は京都や福山を経て、富山の安田村に移り住んだといいます。地名の安田を屋号とし、代々当主は「三善」にちなみ「善次郎」の名を名乗ったと言われています。安田善次郎は富山で1838年に誕生。幼名は岩次郎。成人して、江戸へ出たのち、1863年独立、そして翌年両替商「安田屋」を開業、名前も「善次郎」と改めました。
<「分銅に三」と天井の中心飾り>


軒先瓦と天井中心飾り
安田銀行会津支店の天井の中心飾りを調べるにあたって、私は「天井の中心飾りそのもの」の手がかりを探すことから入ったので、この装飾が何であるかにたどり着くまでに、相当な時間を要しました。しかも、銀行の統合併により、調べる伝手がなかなかみえてきませんでした。両替商「安田屋」は1880年に「安田銀行」に、そして1948年に「富士銀行」と改称しています。そして運の悪いことに調べていた20年ほど前は多くの銀行が統合し、富士銀行も第一勧業銀行などと合併し「みずほ銀行」となったばかりでした。銀行に電話で問い合わせると「旧富士銀行ですか? 旧第一勧業銀行ですか?」が交換の方の第一声でした。そんな大変な時に電話をしてしまった自分を反省し、手がかりがみつかるのだろうかと途方に暮れていたのを思い出します。
その後、「銀行協会」なる組織の存在を知り、FAXで飾りのスケッチを送り、改めて電話で尋ねてみました。対応してくださった方は、とても親切だったと記憶しています。しかし、答えは「このような文様は、銀行協会で所有しているデータからは確認できない。」というものでした。ただ続けて「普通は銀行の行章がデザインされることが一般的ですけれど…」と言われた瞬間、稲妻が走りました。そして直後に「あーーーっ」と叫び声をあげたことを、昨日のことのように覚えています。この天井の中心飾りの絵しか見ていなかった私は、電話口の「行章」という言葉に反応して、改めて安田銀行の「行章」を見ました。その時、「行章を縦に半分にしたものを三つ配したものだ…」と気づいたのです。明治村の呉服座の座紋にお多福の顔が五つあることを発見した以上の驚きでした。
電話口できっとキョトンとされていただろう銀行協会の方に「解決しました。ありがとうございました!」と、お礼を告げ、電話を置きました。
半割の行章が「三つ」なのも三善の「三」に因んだものかはわかりません。安田銀行の他の支店でこのような飾りやデザインが用いられたかどうかも不明です。しかし、このように紋に注目すると、様々な歴史につながり、広がりを感じることがで、その面白さに沼っていくのです。
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