「紋」に注目してみると…

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インテリア 明治時代の文化 歴史

2026/06/03

「紋」に注目してみると…

明治村学芸員

記者

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二十四節気にそえて 8

 

<小満> 草木が周囲に満ち始める意(広辞苑)

 

木々の緑の濃さが深くなり青々としてきました。晴れていれば、空の青さと木々の青さのコントラストが、雨が降れば、雨粒を乗せた木々が輝く、風情ある表情を自然は見せてくれます。

 

椅子が解き明かす宮殿のミステリー

 

<なぜ明治村へ宮殿の家具が…?>

以前、明治村で所蔵する「鹿鳴館の椅子」を紹介しましたが、今回は、開村前後に宮内庁から受け入れたある「長椅子」にまつわるお話です。
実は明治村の開村前後のころ、宮内庁から何回かにわたって払い下げを受け、明治村の収蔵品となった家具が多数あります。小さな一輪挿しのような花瓶から、大型のソファやベッドまで、その数は数百点に及びます。
しかし現在、その詳しいいきさつに関する過去の記録はみつかっていません。わかっているのは、開村前から明治村の建築委員を務めておられた元館長・飯田喜四郎先生が、当時の会議で「宮内庁から家具がもらえそうだ」と発言なさったということだけです。のちに飯田先生が館長在任中、「どういういきさつだったのですか?」とお尋ねしたところ、「ずいぶん前のことだからねぇ…」と40年以上も前のことゆえ、残念ながら覚えていらっしゃらないようでした。
飯田先生の経歴を紐解くと、大学卒業後フランスへ留学し、帰国後は宮内庁にお勤めでした。その後、名古屋大学の建築学科開設にあたって招聘され、明治村の建築委員としてもお力添えをいただくようになったのです。そんな飯田先生の宮内庁勤務のご縁があったからこそ、宮内庁旧蔵の貴重な家具が明治村へもたらされたのでしょう。

<最初は赤坂離宮の椅子?と考えられていた>

金色に塗られたフレーム、張地は傷んでいるものの、ひとめで上質な絹織物であることがわかります。この椅子には「旧館 階下 舞踏室」と書かれた古いラベルが貼られています。私たち明治村のスタッフは「舞踏室がある宮殿といえば赤坂離宮(当初の名称は東宮御所、現 迎賓館赤坂離宮、以下赤坂離宮と記す)だろう」と半ば思い込みで考えていました。ただ赤坂離宮の舞踏室(羽衣の間)は階上(二階)だけど、「ラベルは階下とあるが…」とすっきりしないものの、長い間展示の際には「赤坂離宮」で使用された家具として紹介してきたのです。

そんな長年のモヤモヤが覆ったのが、あるテレビ番組の取材がきっかけでした。「赤坂離宮旧蔵のものと言いつつも、すっきりしない点がある…」とテレビクルーに話したところ、番組のスタッフがボソッと呟きました。「西洋では椅子の背や、背上部の中央に、紋章で装飾することが多いですね…」と。「紋章?」「家紋…?」。
確かに皇室の「菊の御紋」や徳川家の「葵の紋」など、言葉にしないまでも誰の所持品か一目瞭然となる紋があります。
さっそく家紋の事典を調べると、丸の中に3つの横を向いた菊が描かれた紋は有栖川宮家の家紋「裏三つ菊」であることがわかりました。


左  有栖川宮家紋                 右 椅子中央のメダリオン

 

<椅子が、消えた「有栖川宮邸」の記憶を呼び覚ます>

単なる模様が誰かの「紋」であることが分かったことから、モヤモヤの霧が晴れていきます。
明治時代にこの家紋を用いていた有栖川宮熾仁(たるひと)親王は、明治天皇からの信任も厚く、1882年のロシア皇帝アレクザンドル3世の即位式に明治天皇の名代として参列。その後、建築家片山東熊(とうくま)とともに欧州各国を巡遊し、1884年2月に帰国されています。


熾仁親王

そんな熾仁親王の居宅として霞ヶ関に建てられたのが有栖川宮邸です。イギリス人建築家J.コンドルが設計し、内装を片山東熊が担当したこの邸宅は、コンドルが手がけた彼の初期の邸宅建築であるとともに、日本の宮廷建築史上、初めての本格的洋館として極めて重要な建物です。


有栖川宮洋館(本館)正面


有栖川宮洋館(若宮館)南面

赤坂離宮とは異なり、この有栖川宮邸の舞踏室は1階(階下)にありました。そしてなにより『コンドル博士遺作集』の中に、まさにこの長椅子の写真が掲載されていたのです。家紋(紋章)という小さな手掛かりが、所有者を特定する最大の鍵となりました。

『明治工業史』には「装飾品はすべて外国へ注文せり」との記載があるため、この椅子を含む家具調度品は、熾仁親王と片山東熊がヨーロッパを巡遊した際に注文したものと考えられます。
熾仁親王は1895年に薨去(こうきょ)され、この邸宅は弟の威仁(たけひと)親王に引き継がれますが、1904年に宮内省に引き継がれて霞が関離宮となりました。皇太子時代の昭和天皇の東宮仮御所として、1921年から2年ほど用いられました。残念ながら霞が関離宮となった有栖川宮邸は戦災で焼失し、現在はその姿を見ることはかないません。
家具は移動ができます。だからこそ、何らかの理由で別な場所へ持ち出されたこの椅子は、被災することなく、生き延びることができたのでしょう。「紋」に注目していなければ、この椅子の出自を知ることなく、モヤモヤした気持ちで「赤坂離宮の椅子(らしい)」とずっと紹介し続けていたことでしょう。
建物自体は消えてしまいましたが、この椅子は別な場所に移されたが故、今日まで存在することができました。そして今日存在しているがゆえ、華麗な宮殿の記憶を、今も私たちに語りかけてくれているのです。

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