ポーツマスの机とその鍵

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インテリア 歴史

2026/09/04

ポーツマスの机とその鍵

明治村学芸員

記者

明治村学芸員

二十四節気にそえて 14

 

<処暑> 暑さが止み、新涼(秋の始めの涼気)が間近い日。(広辞苑)

 

小村壽太郎はどこに座ったのか?

 

<ポーツマスの机>

皆さんは明治村の帝国ホテル中央玄関2階の奥にポーツマス条約調印の際の使用された机があるのはご存じでしょうか。歴史の教科書で、日露の両使節団が向かい合って会談している写真を目にした方は少なくないでしょう。あるいは、明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館に展示されている白瀧幾之助が描いた壁画を覚えていらっしゃる方もいるかもしれません。
9月5日は、ポーツマス条約が調印された日です。昨年は調印から120年という記念の年でしたので、あちこちで記念イベントが開催されました。かくいう明治村でも特別展として「日本外交のパイオニア 小村寿太郎」を、日南市小村寿太郎記念館のご協力により開催いたしました。

 

<ポーツマスの机が明治村へもたらされるまで>

そう、あの大きな机です。
明治村へは1988年10月に寄贈され、翌年3月から公開を開始しました。少し遅れて1989年5月には日米の関係者を招き、公開記念式典を行っています。
この机が明治村へもたらされるまでの経緯などは『ハドソン川は静かに流れる』(松村正義著 1975年)や『明治村だより』225号から227号(1989年)に詳しいのですが、ここで簡単に紹介したいと思います。
机はポーツマス海軍工廠での条約調印終了後、オークションにかけられて民間人の手に渡り、その後レンスレア工科大学(RPI)へもたらされました。
手元にある1976年に発行されたRPIのニュースレターによると、調印に立ち会った当時ポーツマス海軍造船所の司令官パークス氏(またはその夫人)がこの机を購入し、1930年にRPIへ寄贈したとあります。その後は学内の図書室、ついで役員会議室の会議用テーブルとして用いられてきました。
それから時を経て、松村氏をはじめとする多くの方々のご尽力により、明治村へこの机がやってきたのです。

 

<ポーツマスの机の鍵>


テーブルとともにやってきたものの中に、「引き出しの鍵(以下、鍵と表記)」があります。鍵は資料として正式に登録されておらず、松村氏の著作をはじめとする種々の記録にも一切表れてきませんでした。


ある日、偶然目にしたRPIとの書簡綴りの中に、何やらゴソゴソする立体物がはさみこまれているのに気づきました。確認してみると、「PEACE TABLE」とタイプライターで印字されたラベルつきのタグが取り付けられた11個の鍵でした。タグは基本的に丸型で、両面に「PEACE TABLE」のラベルと、片面に赤鉛筆で手書きの数字、そして鍵本体には番号が「DF 1」などと刻印されています。
そんな中、一つだけ一回り小さな長方形のタグに手書き文字が添えられた鍵がありました。正確ではないかもしれませんが「Count Vittes Key」、つまりヴィッテ伯爵の鍵と読めます。日本では「ウィッテ」と発音されることが多いですが、Witteの母国であるロシアはじめ欧米では「ヴィッテ」と発音するのが一般的であるため、WitteをVitteと書き違えたと考えるのは容易です。また一段目のCountですが、Witteは条約締結後その功績によりCount(伯爵)を受爵していますから、「Count Vittes Key」はまさしくこのポーツマス条約調印時にWitteが使用した机の引き出しの鍵に違いありません。

 

<引き出しは…>


机には引き出しが全部で14あります。長手に各6、短手に各1です。「Count Vittes Key」がはまる引き出しがみつかれば、Witteが使った引き出しが特定できる…、そうしたらその向かい側の引き出しは、日本の全権大使・小村壽太郎が使用したもの…と、仄かな期待を胸に、鍵一式を手に、帝国ホテル中央玄関へ向かい、鍵を試しました。

しかし結果は残念ながら、今のところは当てはまるものはありませんでした。


引き出しをよく見ると内側の金物に番号が振られていますので、引き出しと鍵が対応していることがわかりました。鍵は回るものの引き出しが動かないよう打ち付けてあるものが3か所ありました。引き出し側の鍵が壊れているもの、開いたけれども、手持ちの鍵には該当するものがないものもあり、鍵以外で開かない引き出しを安全に開ける方法がないかなどを、慎重に調査をする必要があると痛感しました。
また引き出し自体は、すべて抜き出して場所を入れ替えることは容易にできるため、Witteの引き出しがわかれば、小村の引き出しも判明する…と考えたのは、ずいぶん浅はかな考えであったと反省しました。
それにしても、机の脚は6本に対し、座っていた全権委員は各国5名です。中央に座っていた全権大使のWitteと小村はずいぶん居心地の悪い体勢のまま、身を削るような厳しい交渉に挑んだことでしょう。そう想像するだけで、彼らの苦労は並々ならぬものであったことが偲ばれます。

 

<平和の願いが込められた机>

松村氏の『ハドソン川は静かに流れる』の中に、1905年9月5日3時47分、調印が終了したときの様子が描かれています。19発の号砲が轟きわたると、それに呼応するかの如く、ポーツマスの街の工場や船舶から汽笛が鳴りひびき、各教会の鐘が平和の到来を祝福して鳴り渡ったと。
そして、この机の寄贈にあたって、レンスレア工科大学から明治村へ寄せられたメッセージには下記のように記されています。

「レンスレア工科大学より、1905年に日露戦争を終結させた条約調印の際に使用された机を、博物館明治村へ贈呈できますことを大変喜ばしく存じます。本寄贈は、日米両国の友好親善を促進することを目的とするものです。50年以上にわたり当大学にて保管されてきたこのテーブルは、条約調印の場に立ち会った当校卒業生の未亡人より寄贈されたものであります。
貴館を訪れる多くの皆様に、この記念すべきテーブルをご覧いただき楽しんでいただけますことを、心より願っております。」

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