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夏目漱石著『こころ』と書簡~美しい本をつくりたい漱石の心意気

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文学 明治時代の文化 歴史

2026/05/09

夏目漱石著『こころ』と書簡~美しい本をつくりたい漱石の心意気

明治村学芸員

記者

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二十四節気にそえて 7

 

<立夏> 夏のはじめ(広辞苑)

 

点描派の絵画のような何色もの淡い緑から、木々の緑が次第に濃く、深くなってきました。暦の上では、立夏から立秋の前日までが、夏とされています。

 

<夏目漱石(1867-1916)>

 博物館明治村には、夏目漱石の初版本が数多く所蔵されています。漱石の本は、文学的な価値はもちろんのこと、その「本の美しさ」もひと際目を惹きます。「美しい本」に込めた漱石の想いの一端をご紹介いたします。
2026年は夏目漱石没後110年の記念の年です。
夏目漱石(本名・金之助)は、1867年に江戸の牛込馬場下横町で生まれました。若き日の彼にとって大きな転機となったのは、大学予備門(のちの第一高等学校)に入学し、そこで生涯の親友となる正岡子規と出会ったことです。
その後、帝国大学(現在の東京大学)の文科大学へ進み、英文学を学び、卒業後は東京高等師範学校をはじめ、愛媛県尋常中学校(松山)や、熊本の第五高等学校で教鞭を執りました。これらの経験や生徒たちとの交流をもとに、後に『坊っちゃん』が誕生しました。
1900年、彼は文部省の命を受けてロンドンへ留学します。慣れない異国の地での暮らしで、文化や言葉の壁にぶつかり悩みの連続でした。
帰国後、彼は友人らの勧めで筆を執り、作家としての道を歩み始めます。東京帝国大学講師などの職を離れ、朝日新聞社に入社して専業作家となってからは、『虞美人草』や『こころ』など数多くの名作を世に送り出しました。彼の自宅は、彼を慕う教え子や若い文学者たちが集まるなど交流の場でもありました。1916年、『明暗』執筆中に倒れ、49歳で逝去。


夏目漱石

 

<美しい本をつくる>

漱石が文壇デビューを果たした作品は『吾輩は猫である』ですが、その初出は雑誌「ホトトギス」でした。「猫」の連載は好評を博し、単行本として発刊することとなります。
漱石は単行本化にあたって、友人で画家の中村不折に宛てた手紙に、次のように綴っています。

「(前略)…今回ホトゝギス所載の拙稿を大倉書店で出版致し度と申すについては其内に挿画を入れる必要有之 之を大兄に願ひ度事小生も書肆(しょし)も一様に希望につき ご多忙中甚だご迷惑とは存じ候へども御引受け被下間敷や 実は製本も可成(かなり)美しく致し美術的のものを作る書店の考につき 君の筆で雅致滑稽的のものをかいて下されば幸甚と存候…(後略)」(明治38年8月7日付)


『吾輩は猫である』上巻 挿絵 中村不折画

また、橋口五葉宛の手紙には、
「(前略)…其節御依頼の表紙の義は矢張り玉子色のとりの子紙のあつきものに朱と金にて何か御工夫願度 先は右御願迄…(後略)」(同年8月9日付)


『吾輩は猫である』上巻 表紙 橋口五葉画

さらに中川芳太郎宛には、
「(前略)…僕本屋の請に応じて猫を出版する二百八十頁位になる。何で(も)挿画や何かするから壱円位になるだらうと思ふ。到底売れないね。うれなくても奇麗な本が愉快だ。…(後略)」(同年8月11日付)

と、とにかく「美しい本をつくりたい」という熱い思いを伝えています。そして出来上がった『吾輩は猫である』は上・中・下の三冊に分かれ、当時としては一円近い※1という高価な本でしたが、大変な売れ行きで、早速増刷をするほどでした。


『吾輩は猫である』上巻 奥付 橋口五葉画

(※1:上巻は95銭、中・下巻は90銭で、1906年ごろの巡査の初任給が12円。)

 

<漱石が教え子に送った手紙>

拝啓 東京も非常なあつさです 雨が降らないのでたまりません 其処へ独乙(ドイツ)と露西亜(ロシア)の戦争で猶々(いよいよ)あつくなります 此先どうなるか分りませんが何だか新聞は一号活字ばかりです 偖(さて)御恵贈の拓本は頗る珍らしく拝見しました あれは古いのではないでせうが面白い字で愉快です、私は今度の小説の箱表紙見返し扉一切合切自分の考案で自分で手を下してやりました 其内の表紙にあれを応用致しました 出来上がつたら御目にかけませう 私はあなたから時々なにかいただく丈(だけ)で此方からは何も上げた事がない 恐縮してゐます 先は御礼迄 以上    夏目金之助
八月九日
橋口貢様

封筒の宛名は「清国湖北省沙市 日本国領事館 橋口貢」で、日付は1914(大正3)年8月9日と書かれています。


封筒

橋口貢(1872~1929)は、漱石の本の装幀を多く手がけた橋口五葉の兄です。漱石が熊本の第五高等学校(五高)に赴任していた時の教え子でもありました。貢は五高から東京帝国大学に進み、卒業後は外交官として主に中国を舞台に活躍しました。五葉が漱石の本の装幀を手掛けるようになったのも、兄である貢の存在が大きかったといわれています。


橋口貢宛

 

<1914年・夏>

手紙に綴られた「暑さ」と「雨の少なさ」は、気象庁の過去のデータベースからも裏付けられます。1914年7月後半からはほぼ毎日30℃を超える猛暑で、降雨量も非常に少なかったという記録が残っています。
そして、戦争。漱石が手紙に書いているように、1914年7月28日、サラエボ事件を引き金とした第一次世界大戦が勃発しました。厳しい気象条件に加え、先の見えない戦争のニュースが、新聞紙上は見出し用の大きな活字「一号活字ばかり」と綴った漱石の文面から、当時の人々の昂ぶる気持ちを読み取ることができます。

 

<自身で「美しい本」をプロデュース>

手紙の中で漱石は、橋口貢が贈ってくれた拓本について「古いものではないであろうが、面白い字で『愉快』」と喜びを伝えています。そして次の小説の「箱・表紙・見返し・扉」などの装幀すべてを自分で行い、その表紙に貢から贈られた拓本を「応用」した、と述べています。もととなった拓本は現在東北大学附属図書館に遺されています。


石鼓文 東北大学附属図書館所蔵

この拓本は「石鼓文(せっこぶん)」と呼ばれる、最古の石刻文字のひとつです。そして、ここで漱石が言う「今度の小説」とは、『こころ』を指します。実はこの『こころ』には、もう一つの特別な背景がありました。この本は、漱石の門下生であった岩波茂雄が「岩波書店」を創業するにあたり、その記念すべき第一号の出版物として世に出されたもので、漱石自らが「装幀」を手掛けることで、愛弟子の新たな門出を祝したものです。
通常、本の装幀は専門家に依頼するものですが、漱石はこの時、自らデザインの筆を執ったのです。
『吾輩は猫である』の出版から約10年。自身での装幀という念願を実現させた漱石。その「心意気」を感じるこの手紙から、『こころ』という美しい本に込められた想いを是非、感じ取ってください。

※参考文献 漱石全集 22巻から24巻 2004年 岩波書店

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