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2026/03/05
講堂さん ごめんなさい~千早赤阪小学校講堂の記憶
二十四節気によせて 3
<啓蟄(けいちつ)> 冬ごもりの虫がはい出る意(広辞苑)

講堂さん ごめんなさい ~千早赤阪小学校講堂の記憶~
卒業式のたよりが届く季節となりました。今回は、千早赤阪小学校講堂にまつわるお話をしたいと思います。
<50年前の明治村>
今から50年前、1976年3月には、帝国ホテル中央玄関の外装が竣工し、日比谷での帝国ホテルの姿が玄関部分だけですが復元されました。
それと同時に、山形県天童市から移築された「天童眼鏡橋」、そして大阪の千早赤阪村から移築された「千早赤阪小学校講堂」が公開されました。
<千早赤阪小学校講堂とは>

千早赤阪小学校講堂の創建については諸説あり、また別な機会に紹介したいと思いますが、明治村では大阪市にあった堀川尋常小学校の講堂が、千早赤阪村(当時は赤阪村)の赤阪尋常師範学校の講堂として移築されたという説を現在のところ採用しています。
これは移築当時の千早赤阪村に遺る「大阪市大工町 旧堀川小学校校舎を移築」と認められた資料を基にしていると思われます。
千早赤阪小学校講堂は、1階は雨天体操場として、2階は講堂として用いられた建物です。

2階の一部分が張り出し、奉安殿(天皇のご真影などを収める場所)が設けられており、奉安殿の前には小さな舞台が、天井は折り上げ格天井にシャンデリア風の電灯が吊るされています。また1階の軒下にはアーチが連続し、2階は三角形のペディメントの装飾のある窓が連続する意匠的にも優れたものです。
2015年に千早赤阪小学校講堂は特別展示室となったため、日常的に見学していただけるのは外観のみです。2階は移築以来、ずっと非公開で、ある時点から明治村の収蔵室の一つとなりましたので、今後もなかなか見学いただくことができない建物でもあります。
<千早赤阪小学校講堂が明治村へやってくるまで>
同じ資料を紐解いてみると
昭和3(1928)年9月、天皇即位記念事業として建築認可申請
同年 9月14日 地鎮祭
昭和4年5月4日、第一期工事竣工
昭和5年5月27日、第二期工事竣工
同年 6月1日、落成式
昭和45年4月22日 千早赤阪小学校講堂を明治村へ移築する贈呈式と講堂おわかれ式を行う
昭和51年3月18日 移築竣工
と記録されています。
明治村開村直後の昭和40年の冬に、千早赤阪小学校講堂は移築候補物件として話題に上がっていましたが、翌年に調査した時点では、学校施設として使用しているということで一旦移築は断念しましたが、その後、校舎建て替えの機に、移築の話が本格化したものです。
先程とは別な千早赤阪村の記録では、この講堂は学校行事として利用するだけではなく、千早赤阪村の村民の集会場として、そしてレクリエーションの場として利用され、
村民に広く親しまれてきた建物であるとの記載もあります。
<千早赤阪村の人々に親しまれた講堂>
この建物が明治村へ移築されることが決まった時には、「講堂おわかれ会」なる行事が開かれました。
式は2階講堂の奉安殿の前のステージで行なわれました。「講堂おわかれ会」のお横断幕が掲げられたステージで、まずは贈呈式として、最初に村長があいさつと明治村へ講堂を移築する旨を告げ、ついで明治村側のあいさつ-副館長の田内静三が代表して、講堂を文化財として末永く保存する旨-、PTA会長や校長があいさつを述べたのち、「さよなら講堂おわかれ会」に移りました。

ステージでは子どもたちのお遊戯が楽器の演奏が繰り広げられ、村民の方たちが見物している様子が写真に収められ、学び舎としてだけでなく、村の人々とともに存在していた建物だったのだなぁと改めて感じさせられました。

<講堂さん ごめんなさい>
この講堂おわかれ会は地元紙の取材も数多く受けたようで、手元にはスクラップされた記事がいくつか遺され、そこに掲載されている子どもの講堂へのお礼の言葉が出色です。
「台風にも、大雨にも、雪にもよくがんばってくれた講堂なのに、いくらそうじしても美しくならないので、ボロやなぁとボールをあてて いたみを大きくしたこともありました。ごめんなさい。」

そんな天真爛漫な言葉を寄せてくれた当時6年生の皆さんも、数年前に還暦を迎えられたことでしょう。
ボロやなぁと思っていた講堂は、今は明治村で美しいたたずまいを見せています。そして、千早赤阪村の人々の、ひいては皆様の思い出の場所としていつまでも残り続けていくでしょう。
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