「紋」に注目してみると 5

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建築 明治時代の文化 歴史

2026/07/23

「紋」に注目してみると 5

明治村学芸員

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二十四節気にそえて 12

 

<大暑> この日から暑気に入る。(広辞苑)

 

「三」と「川」 その2

 

<川崎銀行本店>

川崎銀行本店の建物は、もともとこのような階段状の建物であったわけではなく、かつては一般的な箱型のビルでした。1985年に建物が取り壊された際、明治村が建物左端の一部分を譲り受けて移築したため、現在の印象的な姿となっています。

この建物は1921(大正10)年に着工し、途中関東大震災による工事の中断を経て、1927(昭和2)年に竣工しました。設計者は矢部又吉です。彼は工手学校(現・工学院大学)を卒業後、ベルリンのシャルロッテン工科大学(現・ベルリン工科大学)に学び、帰国後に川崎銀行関連の建築を数多く手がけました。

建っていた場所は東京・日本橋のメインストリートで、まさに川崎銀行の威信をかけた建物であったことがうかがえます。それまで厳めしい印象が多かった銀行建築としては異例のルネサンス様式が採用され、優雅さと優美さを併せ持つ名建築と評されていました。

元の建物は鉄筋コンクリート造3階建てで、正面の中央および左右の隅の都合3箇所に出入口が設けられていました。明治村へもたらされたのはその「左端部」のみですが、「端」といえども建物全体の美しさを彷彿とさせる西洋建築のエッセンスが凝縮されています。

外観を見上げると、1階壁面は四角く加工した花崗岩の目地を揃えて水平に積み上げる「花崗岩切石整層積」がなされ、入口部分はギリシアのパルテノン神殿を思わせるドリス式円柱が両脇を固めています。2階と3階にはアカンサスの装飾があるコリント式の柱が立ち並び、2階の窓上のアーチ型の飾りが目をひきます。さらに、窓の上に庇(ひさし)のような装飾を配した1階の窓と、一般的な窓台を配した3階の窓が互いに呼応し、建物全体に美しい調和をもたらしています。

また、入口の鋳鉄製の扉にはロゼット(バラ飾り)が施され、入口上部にはペディメントのような華やかな装飾があしらわれています。

西洋建築の教科書に出てきそうな装飾が満載の川崎銀行本店の建物ですが、その中でこのメダリオンだけが異彩を放っています。このメダリオンをよく見ると、縦に3つの筋、つまり「川」の字が刻まれています。

 

<「川」と川崎銀行>

川崎銀行本店の装飾に刻まれた「川」の文字。これはもちろん川崎銀行及び創業家川崎家の「川」で、川崎銀行の行章とも言われています。しかし、この「川」の文字にはもう一つ別の意味があるのではないか、そんな妄想が膨らんでいます。そのヒントは、川嵜家のルーツにあるように思われます。

川崎家は水戸を発祥し、徳川光圀の時代から水戸藩の御用商人を務めていました。17世紀半ばに回漕問屋として事業を起こし、利根川の海運業で大きな財を成したとされています。つまり、「川」は川崎家の繁栄に必要不可欠な重要な存在であったでしょう。だからこそ「川」の文字に感謝の意を込め、紋章として用いたのではないでしょうか。

 

<安心安全を伝える堅牢な建築>

川崎銀行本店の建物は、デザインが優れているだけではなく、堅牢さをも兼ね備えています。これは川崎銀行の他の支店の建物にも共通する特徴です。「ここなら安心してお金を預けられる。」と人々に視覚的にも安心感を与えることが当時の銀行経営において重要だったのでしょう。

一方で安田銀行会津支店が、街並に溶け込んでいたように、川崎銀行の遺構からも、「街の特別な存在でありつつ、親しみやすさがある」という絶妙なバランス感覚を感じます。それだからこそ、千葉市や佐原市(現・香取市)に残る支店の建物は、博物館施設とその役目を変えながらも、今なお市民に親しまれる建物として息づいています。

「川」から始まった今回の「紋」巡り。他の川崎銀行の遺構にはどのような「紋」が残っているのか、この目で確かめたくなりました。

 

<「紋」は建物の遺伝子>

建物や家具に付けられた「紋」。それはたとえ建物の名称や所有者が変わろうとも、その出自が何であるのかを語り継ぐ「遺伝子」のようなものかもしれません。

川崎銀行本店は建物竣工後ほどなくして第百銀行と合併し、「川崎第百銀行」へとその名を変えました。そして当然、行章も別なものへと変更されています。しかし、取り替えることのできない建築装飾に刻み込まれたルーツをみつける、それもまた、歴史的な建物や家具を鑑賞する上での醍醐味の一つかもしれません。

 

 

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