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改めて知りたい!“近代日本医学の父”北里柴三郎が日本医学に残したもの

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2025/02/26

改めて知りたい!“近代日本医学の父”北里柴三郎が日本医学に残したもの

メイジノオト編集部

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“近代日本医学の父”と呼ばれる「北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)」は、日本が誇る世界的な細菌学者です。感染症の分野において多くの重要な研究を行い、日本のみならず世界に大きな影響を与えました。
今回は、その偉大な足跡を振り返り、改めて北里柴三郎を紹介していきます。

北里柴三郎の生い立ちと医学との出会い

 

1853年、現在の熊本県阿蘇郡小国町北里 に生まれた北里柴三郎(以下、北里と表記)は、幼少期から武芸に熱中しており、学問よりも軍人になることを夢見ていました。しかし、1871年に父の勧めで熊本の古城医学所兼病院で学びはじめ、彼の人生は大きな転機を迎えます。
そこで出会ったオランダ人教師マンスフェルトが、北里に医学の面白さを伝えました。特に、顕微鏡で拡大された身体組織を初めて見たとき、北里は強い感動を覚え、医学の世界に心を開きはじめます。マンスフェルトの助言に従い、さらに深く医学を学ぶために東京へ向かう決意を固めたのでした。

東京医学校時代と伝染病

北里は東京医学校(現在の東京大学医学部)に進学し、ドイツ医学を中心とした近代医学を学びました。彼の医学の基盤はこの時期に培われたものです。特に、細菌学や病気の原因に関する西洋の知識を吸収していきました。
在学中の1877年に、日本は深刻な伝染病の流行に直面します。特にコレラや天然痘が猛威を振るい、死者数は約10万人にものぼりました。伝染病の流行は、当時の医療制度や感染症に対する理解が不足していたことを浮き彫りにしました。この伝染病の蔓延により、北里は「病気にかからないよう未然に防ぐこと」の重要性を強く認識し、病気の原因を突き止め、予防法を見つけることに全力を注ぐことを決意します。この時期の彼の考え方や行動が、後に彼の細菌学的発見や予防医学への貢献へとつながっていきます。

コッホの細菌学的発見と北里柴三郎の貢献

 

 1883年に東京医学校を卒業後、北里は内務省衛生局に就職し、1885年には官費でドイツに留学。炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見で知られる細菌学者、R・コッホに師事し、研究に励みました。
北里が医学の世界で重要な役割を果たした背景には、彼が師事したコッホの細菌学的発見が大きな影響を与えています。コッホは病気の原因が細菌や微生物の感染によるものであることを証明しました。
当時、病気は、架空の獣や呪い、悪臭などがその原因と信じられており、伝染病に関する理解は限られていました。しかし、コッホの発見により、病気が目に見えない微生物によって引き起こされることが明らかとなり、医学は新たな時代を迎えていました。

北里の功績①  破傷風菌の純粋培養と血清療法の確立

ドイツ留学中、北里は医学史上重要な業績を上げました。
その一つが世界初の破傷風菌の純粋培養です。破傷風菌は神経の働きが悪くなる病気で、その原因菌を特定できずにいましたが、1889年に自作の培養装置により破傷風菌の純粋培養に成功しました。

このことは、当時センセーショナルな出来事として現地の新聞に報じられることもありました。

その後、北里は破傷風菌の治療法を模索します。そして確立したのが「血清療法」です。
高校の生物などで「血清療法」を耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

血清療法は、動物が特定の病気に感染し、免疫を獲得した後、その免疫を血清として取り出し、患者に投与するというものです。
これまでは病気が発症した後の治療法は限られていましたが、血清療法の登場により、感染症にかかっても治療できるという希望が生まれ、治療の範囲が大きく広がりました。
抗生物質が発見される前の時代において、血清療法は感染症の治療において非常に重要な役割を果たしました。
これらの成果は北里が日本に帰国後、感染症研究を主導する基盤となり、近代医学の発展に大きく寄与しました。またこの功績から「世界のキタサト」と称され、国際的にも高い評価を受ける存在となりました。

北里の功績② 日本医学界の牽引者としての役割

ドイツから帰国後、日本の衛生環境の改善が急務であると痛感した北里は、福澤諭吉の支援を得て1892年に「私立伝染病研究所」を設立し、日夜伝染病研究に励みました。

翌年には結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」も開院し、当時猛威を振るっていた結核との闘いに挑みました。

また、香港に渡り、ペスト菌も発見しています。1897年には北里の働きかけにより、公衆衛生と感染症対策を盛り込んだ伝染病予防法が制定され、日本の衛生環境が大きく改善されていく基礎が築かれました。

留学中に培った知見と経験のもと、日本の医学界を牽引し、1914年に「北里研究所」を設立しました。

北里の功績③ 後進の育成

博物館明治村 北里研究所本館・医学館 研究室

北里研究所の設立と後進育成 

北里は研究の傍ら、研究者や医学生に対して多くの指導を行い、後進の育成にも力を入れました。赤痢菌を発見した志賀潔や旧千円札の“顔”であった野口英世も北里の指導を受け、世界で活躍する研究者となりました。北里研究所は医学教育においても重要な役割を担ったのです。

 日本医学界への貢献

北里は終生の恩人である福澤諭吉が創設した慶應義塾大学の医学科の設立にも尽力しました。(1858年福澤諭吉により私塾として設立された慶應義塾は、1920年に大学令により慶應義塾大学となる)
1917年福澤諭吉の長男・一太郎の要請を受けた北里柴三郎が、北里研究所所長の職を持ちながら無報酬で初代医学部長を引き受けました。
さらに、1923年11月、北里は日本医師会を創設し、初代会長に就任。医師の専門性の向上と公衆衛生の発展を目指して、医療界の統率と改革に尽力しました。
1931年6月、北里はその生涯を終えましたが、その功績は今も日本医学と公衆衛生の基礎に残り、慶應義塾大学医学部や日本医師会をはじめとする数多くの医療機関にその影響が受け継がれています。

 現代に活きる北里の感染症対策の知見

約130年前、北里が発見した抗体を用いた治療法は、現代の感染症治療・予防の基盤となっています。彼の血清療法は、抗体医療やワクチン開発に受け継がれ、新型コロナウイルス対策でも重要な役割を果たしました。また、北里が提唱した「清潔な環境」「正確な診断」「適切な隔離」という三原則は、パンデミック対策の基本指針とされています。
この考え方を基に、近年ではAIやビッグデータを活用した感染症研究が進展しており、迅速で精密な診断や予測が可能となっています。これにより、次世代の医療技術が進化し、今後の感染症予防と治療の一層の向上に貢献し続けています。

博物館明治村の「北里研究所本館・医学館」   

北里が設立した北里研究所は、開所以来シンボル的存在であった「本館」を、1979年愛知県犬山市の博物館明治村へ移築することを決め、現在は「北里研究所本館・医学館」として公開されています。
北里の人生の転機となったドイツ等でよく見られた意匠が目を引く外観で、今もなお北里と北里研究所の信念をその姿で伝え続けています。
建物内部では北里の功績に関連する資料、実験器具が展示され、人々が感染症と闘ってきた歴史を知ることができます。ぜひ足を運んでみてください。
注釈: 現在では「伝染病」という言葉はほとんど使用されておらず、代わりに「感染症」という用語が一般的に用いられています。本記事内で「伝染病」という言葉が登場する場合は、歴史的な文脈や当時の表現を反映したものであることをご理解ください。

※記事は、2025年2月26日現在になります。

INFORMATION

【博物館明治村】

住所

愛知県犬山市字内山1番地

営業時間

月毎に変更します。詳細はHPでご確認ください。

定休日

不定休。詳細はHPでご確認ください。

電話番号

0568-67-0314

料金

大人 2500円 高校生(要学生証) 1500円 小中学生 700円

公式サイトURL

http://www.meijimura.com/

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