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明治の2人の文豪が、数々の名作を生んだ家

森鷗外・夏目漱石住宅

明治の文豪である森鷗外と夏目漱石が、奇しくも相次いで借家した和風住宅。明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものの、空家のままだったこの家は、明治23年(1890)に森鷗外が借家し1年余りを過ごしました。鷗外は、ここに移り住む同年の1月、処女作小説『舞姫』を発表。この家では『文づかひ』等の小説を執筆し、文壇に入っていきました。
明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が住み、漱石はここで『吾輩は猫である』を発表。文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、よくこの家の姿を写しています。
玄関脇の張り出した和室(応接兼書斎)、台所から座敷への中廊下には、住宅の近代化の萌芽が見られます。

建設年 明治20年(1887)頃
村内所在地 1丁目9番地
旧所在地 東京都文京区千駄木町
文化財種別 登録有形文化財
登録年 平成15年(2003)
解体年 昭和38年(1963)
移築年 昭和39年(1964)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|近代住宅への芽吹きが見える明治時代の典型的な中流住宅

    2人の文豪が相次いで住んだことに加えて、この家が当時の典型的な中流住宅として、現代住宅への発展を感じさせる点でも注目されています。田の字型平面を基本としますが、3畳の女中部屋の前に、ごく短いものの中廊下の起源が見られ、これは各部屋が独立された現代の住宅への第一歩ともいえるでしょう。

    また、南面には書斎を突き出して建っており、この形が後に洋間の応接室として独立していくのです。

    ポイント02|文豪たちが執筆した姿に思いを馳せる

    玄関脇にある応接兼書斎では、漱石が執筆していたであろう部屋の様子を再現しています。

    偉人ストーリー

    持ち主を変え、奇しくも2人の文豪の所縁に

    建築年代は明らかになっていないものの、明治20年(1887)頃、東京牛込の実業家中島氏が、子息襄吉の医科大学卒業にあたり新居として建てられたものと伝えられています。襄吉は勤務先の都合でここに住むことなく、そのためにほぼ新築のまま空家になっていましたが、鷗外が借家して明治23年(1890)9月、この家に移りました。すでに陸軍軍医として勤務する傍ら文筆を執っていた鷗外は、ここで文学評論雑誌『しがらみ草紙』の刊行を続け、我が国の初期浪漫主義の作品とされている小説『文づかい』等を執筆。この家は千朶山房と呼ばれ、鷗外の活発な文芸活動が行われたところです。明治25年(1892)1月には、同じ千駄木町21番地の観潮楼へ移っていきました。

    その後、中島家の借家となっていたのを、明治27年(1894)に、夏目漱石の学友で歴史学者であった斉藤阿具の父が、阿具の住まいとしてこの家を贈りました。斉藤阿具は明治35年(1902)5月、仙台の第二高等学校に赴任し、翌年には海外留学へ。明治36年(1903)2月、英国留学から帰朝して東京帝国大学文学部などで、英語、英文学を講義することになった夏目漱石がこの家を借りることになりました。漱石は斉藤阿具が帰朝して第一高等学校に転任上京する明治39年(1906)までここに住み、『我輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』など多くの作品をここで執筆したといわれています。

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