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本郷喜之床
東京・文京区本郷にあった屋号を「喜之床」と称する理髪店で、明治後期から大正初期にかけての商家の形式をうかがい知れる建物。店の正面をガラス張りにしているのは当時の新しいスタイル。床屋は、ハイカラにはバーバーともいわれ、庶民の暮らしに欠かせない店屋でした。
この建物の2階二間を明治42年(1909)から間借りして家族と生活していたのが、歌人石川啄木です。処女歌集『一握の砂』はここで暮らしているときに出版されました。
建設年 | 明治末年(1910)頃 |
村内所在地 | 4丁目47番地 |
旧所在地 | 東京都文京区本郷 |
文化財種別 | 登録有形文化財 |
登録年 | 平成16年(2004) |
解体年 | 昭和53年(1978) |
移築年 | 昭和55年(1980) |
目次 - Index -
偉人ストーリー
石川啄木が暮らした理髪店
啄木はこの住まいに、函館の友人であった宮崎郁雨に預けていた母・かつを呼び寄せ、また妻の節子、長女の京子を迎えて暮らしました。ここで文学生活をしながら、啄木は京橋滝山町にあった東京朝日新聞社校正部に勤務。
明治43年(1910)9月にはこの地に本籍を移し、同10月には長男の真一が生まれたものの間もなく他界。この年の12月に出版したのが、啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」でした。
奇しくも、明治の暗黒事件として啄木の思想にも大きな影響を与えた、大逆事件が起きた年でもありました。
その頃から母と妻、そして啄木も結核性の病気になり、2階の上り下りさえも苦しくなってしまいます。そのため明治44年(1911)8月7日には、同じく文京区の小石川久堅町にある、小さな平屋建ての家に移りました。明治45年(1912)3月7日にはそこで母のかつが亡くなり、翌4月13日には、啄木もまた母の後を追うように、27歳で薄幸の生涯に幕を下ろすのです。
石川啄木『一握の砂』より
(我を愛する歌)
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
(手套を脱ぐ時)
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり
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