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現地材を使って日本人大工が建てた異色の住宅

ブラジル移民住宅

この住宅は、大正8年(1919)にブラジル・サンパウロ州レジストロ市に建てられました。持ち主は、長野県出身でブラジルに入植した久保田安雄という人物で、日本人移民として慣れないコーヒー栽培に苦闘しながら、密林を拓いてこの家を造りました。
現地産の堅い木材を加工して造られているものの、同じく入植者の中にいた日本人大工の手が入り、小屋組や、木材の継ぎ目である継手や仕口などには、和風の工法が見てとれます。また、建物は尺貫法で造られています。

建設年 大正8年(1919)
村内所在地 4丁目39番地
旧所在地 ブラジル・サンパウロ州 レジストロ市
文化財種別 登録有形文化財
登録年 平成16年(2004)
解体年 昭和49年(1974)
移築年 昭和50年(1975)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|南米産の木材と近年の修理材

    この建物で使われていた木材は、カネラという南米北部に分布する木です。この木はたいへん堅く、ブラジルから移築された当初部材の表面には、大工道具によって加工された粗い凹凸が残っていました。日系移民の人々が限られた道具を駆使しながら、不慣れな現地の材料と格闘した跡を伝えています。

    平成28年(2016)の保存修理工事の際、部材を補修のため取替えるにあたっては、現在、同種の木材が手に入らないため、表面の印象や性質がカネラと似ており、耐久性にも優れたセランガンバツという東南アジア産の木材を選びました。部材表面の仕上げには、あえて加工の痕跡を残し、創建当初の粗い風合いが保たれるようにしました。

    ポイント02|移民を運んだ「笠戸丸」の数奇なストーリー

    ブラジル移民を最初に運んだ船の「笠戸丸」は、実に数奇な運命をたどっています。

    明治33年(1900)にロシア船「カザン」としてイギリスで建造され、日露戦争に海軍の病院船として参戦。しかし、中国大連の旅順港で被爆して座礁し、明治38年(1905)に日本海軍が収用します。翌39年(1906)、海運会社の東洋汽船に貸し下げられ、ハワイ移民やペルー移民、メキシコ移民、そしてブラジル移民の渡航に使用された後、同41年(1908)12月に海軍へ返却。翌42年(1909)、今度は別の海運会社である大阪商船から借用願いが出され、台湾への神戸基隆線に就航。同45年(1912)に同社に払い下げられてから、日台航路に使用されました。

    さらに昭和に入ると、病院船として揚子江へも往復したりしますが、カルカッタ航路最初の就航船としての任務を終えた後、大阪商船から水産会社の手へ。蟹工船として使われます。

    以後、北洋の水産母船として昭和20年(1945)まで活躍しますが、同年8月9日、ソ連の対日宣戦布告と同時に、西カムチャッカの海底に沈められました。

    明治41年(1908)の「日米紳士協約」により、アメリカへの新たな移民が制約を受けるようになると、代わって南米への入植が始まりました。明治41年(1908)には、781名の日本人が契約労働者として、笠戸丸に乗って初めてブラジルへ渡航。彼らはサンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事したとされています。その後もブラジルへの移民は年々増加し、昭和初期の最盛期には、年間2万数千人にも及ぶほどでした。

    移築秘話

    ブラジルから移築されました!

    現地に建っていた当時の様子です。現在の背面側が本来の正面で玄関が配されていました。

    現地での建物解体の様子です。スペイン瓦が丁寧に取り外され、小屋組の垂木や棟木、母屋があらわになってきています。

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