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和洋が並列する近代住宅の典型

学習院長官舎

東京目白の学習院敷地内に建てられた院長官舎。学習院は江戸末期に京都で始まり、皇室や華族の子弟を教育する学校として明治10年(1877)に創立。明治17年(1884)、宮内省所管の官立学校として発足しました。当初は千代田区神田錦町にありましたが、麹町、四谷を経て、明治41年(1908)にまだ郊外であった目白に移転しました。この官舎が建てられたのは、目白に移転した翌年のことです。
当時の学習院院長は、第10代にあたる乃木希典。希典は日露戦争の終結後、明治39年(1906)に軍事参議官という閑職に補せられ、翌40年(1907)1月から学習院長を兼任することとなりました。
建物は木造で、2階建ての和館と洋館が接続した形。洋館部分は、執務室・応接室・大広間からなり、公的なスペースとして使われていたようです。設計者は、文部省技師久留正道であることがわかっています。

建設年 明治42年(1909)
村内所在地 1丁目7番地
旧所在地 東京都豊島区目白
文化財種別 登録有形文化財
登録年 平成15年(2003)
解体年 昭和37年(1962)
移築年 昭和39年(1964)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|和洋の2棟がつながる典型的な和洋折衷の住宅

    軒の高い洋館と、低い和館との接合部に玄関、階段室、取次ぎと厨房が挟みこまれた設計。洋館は院長の接客や実務等の公的用務の建物で、1階に執務室と応接、2階が大広間になっています。私的な生活には日本座敷を利用し、和館は上下階とも、床の間付きの10畳間と6畳間が縁側と幅広の廊下に挟まれた間取り。

    もともと洋館は土足のまま室内に入る仕様だったため、和館部分との境に下駄箱を設け、靴を脱いで和室に入っていました。表の階段室は洋館部分に設けられています。

    ポイント02|軽やかな玄関ポーチ

    洋館の脇に玄関ポーチが取り付いています。ポーチの屋根はトタン板葺きで、棟包みの前端には御紋章があしらわれています。

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    ポーチの妻飾りは細い帯鉄をアールヌーボー調に組んだもので、中央に学習院の校章である桜の絵柄が入れられています。

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    建造物

    この建物は、明治20年(1887)皇宮警察署庁舎として着工されたものですが、工事中に用途が変更され、宮城の守護と儀仗に当たる近衛局(明治22年に近衛師団と改称)の本部となったもの。付属舎であるこの建物は、その右側にあるに2階建て本館と湯沸所兼渡り廊下でつながっていました。皇居内の隣接する宮内庁庁舎は、ジョサイア・コンドル(1852-1902)の設計によるものですが、この近衛局に関しては設計者は明らかになっていません。明治44年(1911)に師団本部が移転したため、皇宮警察本部がここに移り、坂下護衛署として使用されました。
    建物は木造平家建ての瓦葺きで、内と外の壁は白漆喰で塗られています。基壇は石造で、アーケード式のベランダが軽快な印象を与えます。

    近衛局本部付属舎

    建造物

    東京・汐留の新橋停車場構内に東京鉄道局が建てた工場施設の一つです。新橋工場には、旋盤、木工、鍛冶、鋳物など9工場が設けられており、この建物は木工場であったと推測されます。
    この建物は、構造技術の面では鉄道寮新橋工場(4丁目44番地)にならって造られたものですが、鋳鉄柱に「東京鉄道局鋳造」の銘があり、国産鉄造建築の初期例といえます。構造形式は、鉄造平屋建て、越屋根付き切妻屋根の銅板葺き。
    大正8年(1919)に大井工場に移築され第二旋盤職場として、昭和41年(1966)まで使用されました。

    鉄道局新橋工場

    常設展示

    博物館明治村では、明治42年(1909)に竣工した「東宮御所(現 迎賓館 赤坂離宮)」創建当初の家具を数多く所蔵しています。創建当初に撮影された写真とともに、華麗な家具をお楽しみください。

    常設展示 明治の宮廷家具

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