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灯台守が住んだレンガ造の洋式住宅

菅島燈台附属官舎

三重県鳥羽沖に浮かぶ島、菅島にあった灯台の灯りを管理する職員の官舎。隣接していた灯台とともに「お雇い外国人」の英国人技術者R.H.ブラントンの指導により建設されたものです。壁はイギリス積みのレンガ造、正面にベランダが付き、レンガ造の壁に木造の洋小屋を載せて桟瓦を葺いています。ベランダに面する出入口は両開きのガラス戸に鎧戸を付け、窓は上げ下げ窓でやはり鎧戸を備え、植民地建築の様式の特徴が色濃く見られます。
扉、開口部の額縁、巾木等には木目塗りが施されています。この塗装技法は灯台を管轄した工部省燈台局関係の建物によく用いられました。

建設年 明治6年(1873)
村内所在地 3丁目30番地
旧所在地 三重県鳥羽市菅島町
文化財種別 重要文化財
指定年 昭和43年(1968)
解体年 昭和38年(1963)
移築年 昭和39年(1964)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|正面に付くベランダ

    ベランダに面して3か所出入口が開きます。
    出入口はレンガでアーチを架け、半円形の欄間がはまり、建具は外側に両開き鎧戸、内側に両開きガラス戸となっています。

    ポイント02|レンガにも秘密が

    移築再建時に使用されたレンガは、すべて本来の建物で使用されていたもの。
    積み重ねる平(ひら)の部分の表面に浅いくぼみをつけて、目地モルタルが付着しやすくなっているのが特徴です。

    建物で使われていたレンガと瓦は、三重県志摩郡渡鹿島の瓦屋竹内仙太郎によるものであることがわかっています。いずれも製造者の屋号「∧千」が刻印されていました。

    ベランダの床も特徴あるレンガ敷きになっています。

    ポイント03|建具廻りや造作に見られる木目塗り

    灯台を管轄した工部省燈台局関係の建物には、木目塗りという塗装がよく用いられていました。
    木目塗りは、表面の塗装において2色を塗り重ね、塗装後すぐに軽く櫛で引き掻いて、木目をペンキで描く技法です。
    この建物でも、扉、開口部の額縁、巾木等に木目塗りが見られます。その技法の紹介の展示とともに、注目してみてください。

    設計者のR.H.ブラントン(1841-1901)は、スコットランド生まれ。
    明治元年(1868)に来日し、灯台技師として日本に滞在した9年間で、菅島灯台をはじめ30基もの主要な灯台を建設し、管理組織や灯台職員の育成などにも力を尽くしました。

    ブラントンは明治時代に日本政府と雇用契約をした数多くの「お雇い外国人」の第1号です。
    横浜居留地の都市計画も手がけ、日本の近代化に大きく貢献した技術者でした。

    Check!

    菅島燈台附属官舎本体の建造物と一体で、青銅製で石造台座付きの日時計が重要文化財の付属物として指定されています。
    その実物は、1丁目13番地 三重県庁舎2階「常設展示|明治の時計」にて展示しています。
    日時計は、明治時代前半には灯台施設内に設置されるようになりました。

    移築秘話

    役目を終えた附属官舎

    灯火の自動管理が進み、昭和28年(1953)8月に無人化されたことで附属官舎は役目を終え、移築直前の頃には瓦の約2/3が破損・飛散するなど、荒れた状態でした。昭和39年(1964)、明治村が建物を譲り受けることになり、あわせて建物が本来どのような姿だったかを知るための調査が行われました。
    移築前に撮影された写真には、現在も菅島に建つ菅島灯台の姿が見えます。

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    常設展示

    展示室に足を一歩踏み入れると、真っ暗な室内で突然灯台レンズが点灯し、回りだす様は圧巻!
    三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった伊勢湾に浮かぶ「神島」の灯台で実際に使用されていた回転レンズです。また、明治村に移築されている灯台や、灯台建設に貢献をした「お雇い外国人」らの事績をまとめた資料の展示もご覧いただけます。

    常設展示 明治の燈台

    建造物

    北里研究所はドイツでロベルト・コッホに師事し、細菌学を研究した北里柴三郎博士が伝染病の研究所として創立したものです。
    この建物は、博士自身が学んだ研究所にならい、ドイツ・バロック風を基調とし、腰折れ屋根やドーマー窓が特徴です。細部には幾何学をモティーフとした意匠も見られ、新しい時代のデザインの影響も見え隠れします。
    顕微鏡による観察を良好な条件で行えるよう、光の変化が少ない北に面して部屋が設けられていました。

    北里研究所本館・医学館

    建造物

    「亦楽庵(えきらくあん)」は、京都の医家である漢学者でもあった福井恒斎が、明治10年(1877)頃自宅の庭に建てたものと伝えられています。
    利休以後、茶室は様々な形が創出されましたが、その多くはより小さな空間へと向かい、閉じられた形が継承されてきました。しかし、この「亦楽庵」では開け放つ試みがなされており、利休四畳半(本勝手)の茶室の一方に引き違い障子戸を建て、瓦を敷いた土間を介して庭との結び付きを求めています。
    利休の目指した茶室では、華美や豪華は極力避けられ、素朴な構成が追求されました。庭の自然の只中にありながら四方の壁をきっちり囲み、窓には単なる明かり採りとしての意味しか持たせず、狭い空間に大自然を創造しようとしました。

    茶室「亦楽庵」

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