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江戸時代から続く監獄の形式に西洋技術をプラス

前橋監獄雑居房

前橋監獄は洋式の4方放射式建築で、中央に八角洋風の高塔を据えた建物でした。監房は平屋で、各舎房とも、2棟もしくは3棟が連続していたとされています。そのうちの1棟が、この雑居房です。
中廊下形式の建物で、廊下の左右に21の房が並び、端には洗い場がついています。和洋折衷の構造で、格子壁で囲まれた各舎房が左右に連なった上に、洋小屋を載せた形です。各房は、堅い栗の角材が格子状に組まれた形式。房の周囲と廊下は吹きさらしとなっていて、寒さの厳しい真冬には、受刑者にとって過酷な環境だったといえるでしょう。

建設年 明治21年(1888)
村内所在地 5丁目61番地
旧所在地 群馬県前橋市南町
文化財種別 登録有形文化財
登録年 平成16年(2004)
解体年 昭和44年(1969)
移築年 昭和46年(1971)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|当時の規範に則った監獄の構成

    放射状に広がる4翼の中央に八角洋風の高塔を設け、平屋の監獄には各翼とも2棟もしくは3棟の監房が連なっていました。設計者は明らかではないものの、全体の計画は、当時監獄構造の規範とされていた「監獄則並図式」に極めて類似しています。

    雑居房は中廊下形式の建物。廊下の左右に21の囚房が並び、端に洗い場がついていました。

    ポイント02|江戸時代の牢屋を基本に、西洋技術をプラス

    房まわりの構造は、江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えたもの。間仕切り壁のみが厚板の壁になっており、外周と廊下側は太く堅い栗材を密に建て並べ、貫を通して鳥かご状に囲んだ形式です。そのため囚房は、外部と廊下側がすべて吹きさらしに。床、天井ともに堅固に組まれ、入口の周囲には、中から錠に手が届かないような工夫もなされています。唯一、小屋組部分には西洋技術を導入したトラス構造が見られ、和洋折衷の面白さが見てとれます。

    ポイント03|衛生面と監視のしやすさに配慮

    監獄では飲食から排便まで、同じ狭い房内で行われるため、とにかく不衛生になりがちでした。その配慮から、房まわり、廊下ともすべて吹きさらしとし、風通しが良くなっています。

    Check!

    木造平屋建てに切妻、桟瓦葺きの建物。棟には換気のための越屋根(こしやね)が載っています。

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