記者
ライター安田淳
2021/08/23
博物館明治村には60を超える貴重な建築物が移築されており、それらをひとつひとつ見学しているとあっという間に日が暮れてしまいます!明治村を訪れる際は可能な限り時間を多くとって、じっくりと村内散策するのが最大限に楽しむための鉄則です。
さて、明治村に数多く保存されている建築物は明治初期から大正、昭和初期と建てられた年代も実にさまざま。時代背景によって建築の様式も異なってきます。
例えば明治初期は廃藩置県など地方行政の変革により、近代的な役所や教育機関の建造が急務となりました。そのため、各地方の大工たちが「見よう見まね」で新時代にふさわしい“洋風”な建築を建てることになったわけです。
そんな「擬洋風建築」とも呼ばれる建築物の代表と言えるのが、2丁目に保存されている「東山梨郡役所(重要文化財)」です(明治18年建設)。
当時の山梨県令(現在でいう知事)藤村紫朗は開明的な人物で、地元にこのような洋風を模した建物を多く建てさせています。これらは「藤村式」とも呼ばれ、明治村へお引っ越ししたこの「東山梨郡役所」もそのひとつなのです。
このような建物を見て普段は「和洋折衷」というひとことで片付けてしまいがちなのですが、今回はちょっとだけ深堀りをしましょう。この建築物に潜む「違和感」を探ることで、当時の大工さんの苦労が浮かび上がってくるのです。
壁面の出隅は煉瓦造や石造の建築によく用いられる「隅石積」を、壁に漆喰を塗ることで模しています。本来、木造建築には不要な工程かと思われますが、見た目を洋風建築に近づけるためには大切だと考えたのでしょう。
菱目の天井はインドや東南アジアなど、当時西洋諸国の植民地だった暑い地域に多く見られるものです。これらの地域で活動していた技術者らが開国したばかりの日本へ渡ってきた時代でもあり、その影響を受けているのかもしれません。
東山梨郡役所には胡麻殻決り(ごまがらじゃくり)と呼ばれる断面が菊花状の柱が使用されています。柱の底部に寺院建築に用いられる礎石のような石が据えられ、やはり「これじゃない」感を覚えますね。
5丁目にある内閣文庫(明治44年建設)のものなど、西洋建築に見られる柱はこんな感じ。
正面の列柱は洋風のフルーディング(溝彫り)を模しています。
天井の中心飾りにも「波に千鳥」「松竹梅」「菊」など、日本伝統の題材が描かれているのがなんともおもしろいところです。それにしても左官さんの腕はお見事!
こちらの階段は急で、上りきるころには日頃の運動不足を感じます。
江戸時代までは二階建ての建物を造ることがほとんどなかった大工さんたち。階段を造るのには苦労したようですね!
と、いろいろ違和感ポイントを挙げてきましたが、「東山梨郡役所」は明治初期の世相も垣間見られるとても味わい深い建築物です。当時の大工たちが「自分の知る限りの西洋」を基に、試行錯誤しながら建築に挑んだことは想像に難くありません。
ただし「西洋をよく知らなかった」という側面が大きいのは確かなのでしょうが、
「日本大工として培ってきた技術や美意識を、次世代の建築物にも残したい。」
そんな職人の意地やプライドも、心の隅にあったのでは?と想像してしまいます。深読みしすぎでしょうか。
擬洋風建築の好例として、もうひとつ挙げられるのが1丁目にある「三重県庁舎(重要文化財)」(明治12年建設)です。
柱や菱目の天井など「東山梨郡役所」でも見られた擬洋風建築の特徴が随所に表れています。
もうひとつ、1丁目にある「三重県尋常師範学校本館・蔵持小学校」(明治21年建設)も見てみましょう。三重県庁舎と同じく清水義八が建築を手がけています。
おや?アーチの美しさといい、なんだか「こなれた感」が出ていませんか!?
三重県庁舎の細部のデザインなどと比較しても、地方の大工たちが「洋風のデザイン」を受容・会得する過程をうかがい知ることができます。
明治・大正期は建築技術も急速に発展を遂げた時代でした。明治村内にある建物どうしを比較することで、技術の進歩や時代の変遷を実感できることも多々あります。
さらに、「柱だけ」「窓だけ」などポイントを絞って建物を見学してみるとこれまで見えなかったものが見えてきて、明治村を歩く楽しみが広がりそうです。
記者
ライター安田淳
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