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元老が余生を過ごした総数寄屋造りの邸宅

西園寺公望別邸「坐漁荘」

明治の元老西園寺公望(1849-1940)の別邸として静岡県興津に建てられた「坐漁荘」。駿河湾奥、風光明媚な海岸沿いに佇んでいた当時の趣をそのままに、今なお歴史の風格を漂わせます。低い塀の奥には、玄関、台所、2階建て主屋の屋根が幾重にも重なります。昭和4年(1929)には、座敷の横に洋間、その奥には脱衣室を兼ねた化粧室や洋風便器の置かれた便所等が増築されました。

建設年 大正9年(1920)
村内所在地 3丁目27番地
旧所在地 静岡県静岡市清水区興津清見寺町
文化財種別 重要文化財
指定年 平成29年(2017)
解体年 昭和45年(1970)
移築年 昭和46年(1971)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|小粋なセンスが漂う数寄屋造りの建築

    旧東海道に面していた外塀は舟板塀、竹扉の風雅な表門が印象的。簡素なものの、どこか小粋な数奇屋造りのたたずまいです。

    主屋は木造2階建て、軒先に軽い銅板をめぐらせた和風の造りでありながら、小屋組には梁を斜めに渡し、鉄筋の水平筋違を十字に張るなど、強い海風に耐えられるような工夫が込められています。柱はほぼすべて、大工の手間が通常の30倍もかかるという面付きのもの。外壁はすべて杉皮で覆われています。

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    庭園は、住友家御用達の庭師によるもの。公望の実弟が、第15代住友家当主の春翠であったことから、すべて同じ庭師が手がけました。

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    現在、2階座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池を見渡す美しい景色が広がります。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山、左手には伊豆半島が遠望されました。

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    この建物には、施主の好みを反映して竹がふんだんに用いられています。たとえば湯殿は白竹を張り込めた舟底天井となっています。

    ポイント02|陽光の恵みを受けるヴァイタガラス

    上下階の南側の建具には、紫外線を透過する「並厚ヴァイタガラス(vita glass)」が使用されています。日光浴が体によいと言われていた当時、ヴァイタガラスは部屋にいながら日光浴ができると画期的なものでした。公望の健康への配慮が伺えます。

    ポイント03|西園寺公望が愛した調度品

    室内に設置されている調度品は、すべて「坐漁荘」で実際に使われていたもの。フランスへ留学経験があった公望は西洋の暮らしに慣れ親しんでおり、洋式の家具を愛用していました。

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    当時は建物内各所に呼び出しボタンが設置されていました。ボタンを押すと、女中部屋の表示盤に部屋番号が表示され、女中や書生を呼び出せる仕組みです。

    偉人ストーリー

    「坐漁荘」の名に込められた思い

    西園寺公望(1849-1940)は、主に明治政府において大きな功績をあげた人物として知られています。各国公使・各大臣を歴任したほか、伊藤博文のあとを受け政友会を率い、内閣総理大臣を歴任。平民主義の政治姿勢を貫いたことから、“わが国の元勲”とも呼ばれました。大正8年(1919)、パリ講和会議全権大使の役目を終えた公望は、東京の本邸を引き上げ、この別邸で余生を過ごしました。

    渡辺千冬子爵の提案により、「坐漁荘」と名付けられたこの建物。呂尚の故事「坐茅漁」が由来で、「座ってゆっくり魚を捕る」という意味が込められています。しかしながら、引退後も公望の元には事あるごとに政治家の来訪がありました。決して”ゆっくり”とは言えない晩年であったようです。

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