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機械や建築材料の国産化に向けた努力の跡を見る

鉄道局新橋工場

東京・汐留の新橋停車場構内に東京鉄道局が建てた工場施設の一つです。新橋工場には、旋盤、木工、鍛冶、鋳物など9工場が設けられており、この建物は木工場であったと推測されます。
この建物は、構造技術の面では鉄道寮新橋工場(4丁目44番地)にならって造られたものですが、鋳鉄柱に「東京鉄道局鋳造」の銘があり、国産鉄造建築の初期例といえます。構造形式は、鉄造平屋建て、越屋根付き切妻屋根の銅板葺き。
大正8年(1919)に大井工場に移築され第二旋盤職場として、昭和41年(1966)まで使用されました。

建設年 明治22年(1889)
村内所在地 1丁目12番地
旧所在地 東京都品川区大井町
文化財種別 登録有形文化財
登録年 平成15年(2003)
解体年 昭和41年(1966)
移築年 昭和41年(1966)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|昭憲皇太后御料車(5号御料車)(鉄道記念物)を展示

    御料車とは天皇・皇后・皇太后・皇太子のための特別な車輌のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌です。全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされています。

    ポイント02|国産で造られた4つの年代の鋳鉄柱

    日本の鉄道を所管した官庁の名称は、鉄道寮、鉄道局、鉄道省、鉄道院と変わってきました。そのなかの鉄道局時代に、国産鉄材で建てられた工場がこの建物です。鉄柱の側面には「明治二十二年 東京鉄道局鋳造」の文字の陽刻も。

    ポイント03|部材から、国産鉄道技術の進化を見る

    パイプ状の鉄柱や、下見板形に段折された外壁鉄板、格子状に成型された鉄製窓サッシ、鉄棒とL型鉄材を組み合わせた小屋組材などが見どころ。いずれも明治初年にイギリスから輸入され建設された日本初の鉄造建築である鉄道寮新橋工場を見本とし、国産で製造されたものです。

    Check!

    すべての下見板や格子状に成型されたサッシ(1ヵ所のみ現存、当初は回転窓であった痕跡が残る)もすべて国産のもの。当時の工業技術を示す貴重な遺構といえます。

    Check!

    各柱の側面にある、上から下まで全長にわたって鍔(つば)が出され、下見板状の鉄板を固定する工法も英国製に倣ったもの。ただし洋小屋組を構成する鉄材の量は、英国伝来のものより多い点が異なります。

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    建造物

    東京目白の学習院敷地内に建てられた院長官舎。学習院は江戸末期に京都で始まり、皇室や華族の子弟を教育する学校として明治10年(1877)に創立。明治17年(1884)、宮内省所管の官立学校として発足しました。当初は千代田区神田錦町にありましたが、麹町、四谷を経て、明治41年(1908)にまだ郊外であった目白に移転しました。この官舎が建てられたのは、目白に移転した翌年のことです。
    当時の学習院院長は、第10代にあたる乃木希典。希典は日露戦争の終結後、明治39年(1906)に軍事参議官という閑職に補せられ、翌40年(1907)1月から学習院長を兼任することとなりました。
    建物は木造で、2階建ての和館と洋館が接続した形。洋館部分は、執務室・応接室・大広間からなり、公的なスペースとして使われていたようです。設計者は、文部省技師久留正道であることがわかっています。

    学習院長官舎

    重要文化財 / 建造物

    三重県令(現在の知事)岩村定高の発案による洋風県庁舎。明治13年(1880)には明治天皇も行幸され、昭和39年(1964)まで使用されました。明治政府が急速に地方行政の整備を進めると県令はこのような洋風庁舎を新築することが多くなりました。三重県庁舎は、間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称となっており、正面側に2層のベランダがめぐらされています。 中央に玄関と車寄を置き、前面にベランダをつけて左右対称とする構成は、明治9年(1876)に建てられた内務省庁舎にならったもので、明治初期の木造官庁舎の典型といえます。
    設計者は当時、県の土木掛にいた大工の清水義八。清水はその後、同市内に造られた三重県尋常師範学校・蔵持小学校(1丁目3番地)も手がけました。

    三重県庁舎

    建造物

    明治の文豪である森鷗外と夏目漱石が、奇しくも相次いで借家した和風住宅。明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものの、空家のままだったこの家は、明治23年(1890)に森鷗外が借家し1年余りを過ごしました。鷗外は、ここに移り住む同年の1月、処女作小説『舞姫』を発表。この家では『文づかひ』等の小説を執筆し、文壇に入っていきました。
    明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が住み、漱石はここで『吾輩は猫である』を発表。文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、よくこの家の姿を写しています。
    玄関脇の張り出した和室(応接兼書斎)、台所から座敷への中廊下には、住宅の近代化の萌芽が見られます。

    森鷗外・夏目漱石住宅

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