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増改築を繰り返した3階建ての町家

東松家住宅

名古屋市の中心部、堀川の近くにあった町家です。東松(とうまつ)家は明治20年(1887)代後半までは油屋を生業としており、その後は昭和のはじめまで堀川貯蓄銀行を営んでいました。
塗屋造りという江戸時代から続く伝統工法を用いられているこの建物は、間口4間(約7.27m)、奥行き8間半(約15.4m)、切妻造りの屋根をのせた3階建て。間口が狭く奥行きの深い造りは、町家建築の典型そのものですが、創建以来、何度も増改築を繰り返しました。もともと江戸末期には平屋だった建物を、明治28年(1895)に後方へ曳いて移動させたうえ、2階の前半分を増築して現在の店構えに。さらに明治34年(1901)、3階より上の部分を増築したとされています。

建設年 明治34年(1901)頃
村内所在地 2丁目18番地
旧所在地 名古屋市中村区名駅
文化財種別 重要文化財
指定年 昭和49年(1974)
解体年 昭和37年(1962)
移築年 昭和40年(1965)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|店舗と住居を兼ね備えた間取り

    1階には左に裏まで抜ける通り土間を通し、右にミセ、座敷などが連続します。

    通り土間の上は3階までの吹き抜けとなっていて、高窓から取り込まれる光が室内を明るく照らします。

    2階以上の各室はスキップフロア状に連続し、変化に富んだ空間構成は足を踏み入れた者を、奥へ、上へといざないます。

    ポイント02|2階に展開する茶室

    2階には待合い、床框(とこがまち)や墨蹟(ぼくせき)窓などを備えた茶室が設けられています。

    Check!

    茶室へと続く露地に見立てた廊下は、吹き抜けに面しており、建物の奥にありながら外光により明るく足元を導きます。

    ポイント03|裏庭を挟んでさらに奥へ

    1階奥の座敷は裏庭に面しています。そのさらに奥には、梁に「文政十三年」(1830)立柱の墨書がある土蔵が建っています。

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    建造物

    長野県木曽郡大桑村須原の中山道沿いに建てられた医院。建設年は明らかになっていませんが、移築解体時には紙張り天井の下張りから明治36年(1903)11月1日付けの新聞が発見されたため、それ以降の年と考えられています。
    大桑村須原は木曽路の中ほど、妻籠(つまご)と木曽福島の中間に位置し、木曽ヒノキの伐りだしを生業とした町です。この須原に生まれた清水半次郎(1868-1951)は、東京に出て西洋医学を学び、地元の木曽谷に戻って医院を開業しました。
    軒が漆喰で塗り籠められ伝統的な土蔵造にも見えますが、アーチ形の入口や窓、隅柱など洋風意匠を組み合わせていて、宿場町須原にあって目を引いたことでしょう。

    清水医院

    重要文化財 / 建造物

    名古屋市の中心部、堀川の近くにあった町家です。東松(とうまつ)家は明治20年(1887)代後半までは油屋を生業としており、その後は昭和のはじめまで堀川貯蓄銀行を営んでいました。
    塗屋造りという江戸時代から続く伝統工法を用いられているこの建物は、間口4間(約7.27m)、奥行き8間半(約15.4m)、切妻造りの屋根をのせた3階建て。間口が狭く奥行きの深い造りは、町家建築の典型そのものですが、創建以来、何度も増改築を繰り返しました。もともと江戸末期には平屋だった建物を、明治28年(1895)に後方へ曳いて移動させたうえ、2階の前半分を増築して現在の店構えに。さらに明治34年(1901)、3階より上の部分を増築したとされています。

    東松家住宅

    重要文化財 / 建造物

    明治11年(1878)に施行された「郡区町村編成法」により、県令(後の県知事)の任命する郡長が、郡内の行政を指揮監督することになり、各地に郡役所が置かれました。東山梨郡では、明治18年(1885)にこの建物が日下部村に落成。当時の山梨県令であった藤村紫朗は、地元に多くの洋風建築を建てさせたといいます。この役所もその一つでした。山梨県には県令の藤村紫朗の意向で、当時としてはハイカラな、いわゆる擬洋風建築がたくさん造られました。この建物は、その代表格といえるでしょう。
    建物は中央部分が2階建て(洋小屋)、左右翼部が平屋建て(和小屋)になっていて、小屋組の架構が複雑なのも特徴です。

    東山梨郡役所

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