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実験のための装置がいたるところに

第四高等学校物理化学教室

石川県金沢市に第四高等中学校(現 金沢大学)の物理化学実験教場として建てられました。近代化を進める明治政府にとって、自然科学教育は重要課題で、明治5年(1872)に公布された「小学規則」にも窮理学(物理)、化学、博物、生物の4科目があげられており、初等教育の段階から、重きをおいていました。
棟札によると工事監督は山口半六、設計監理は久留正道。いずれも文部省技師として、多くの学校建築に携わった人物でした。

建設年 明治23年(1890)
村内所在地 2丁目15番地
旧所在地 石川県金沢市仙石町
文化財種別 登録有形文化財
登録年 平成15年(2003)
解体年 昭和39年(1964)
移築年 昭和40年(1965)

目次 - Index -

    鑑賞ポイント

    ポイント01|実験教室ならではの換気の工夫

    中央の玄関ホールから入り、左右に物理用・化学用それぞれの階段教室を設けています。木造桟瓦葺きの平家建てで、階段教室のある中央部のみ軒高約7mの切妻屋根として、ひと回り大きく造られています。外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方。縦長の窓は上げ下げ窓で、上部の欄間(らんま)は回転窓です。また、軒裏には小さな換気口が多数開いており、実験室に局所排気装置として設けたドラフトチャンバーとともに、室内の換気に一役買っています。

    Check!

    化学用階段教室の黒板背面には、石敷きの実験台を備えた換気装置付きの小部屋があります。ここでは、生徒に有害ガスを発生する実験を見せていました。屋根の上に立つ2本の煙突は、正面から見て左が有害ガスの排出のための化学教室用、右が物理準備室のものです。

    Check!

    黒板背面の換気装置は、ドラフトチャンバーと呼ばれ、煙道に暖かい空気を送り込むことで上昇気流を発生させ、実験で生じたガスや粉じんを煙突から排出します。階段教室では、隣接する用意室で、ある程度実験が進められたものを黒板を上げて受け取り、学生に見せていたと推測されます。

    ポイント02|実験教室として先陣を切って暗戸を採用

    Check!

    両教室とも、すべての窓に上げ下げ式の暗戸が備え付けられており、実験の内容に応じて真っ暗にできる仕組みです。教卓真横の壁には、暗戸を上げると外光を取り入れられる窓が開けられており、暗い室内でも教師の手元を照らす工夫がなされています。
    この暗戸は他校の理化学教室では用いられておらず、非常に珍しいものです。しかし、鉄板の張られた暗戸を引き上げるのは大変な作業で、後に操作が容易な暗幕に変えられました。

    移築秘話

    明治村創立者の母校

    明治村は、建築家の谷口吉郎と、名古屋鉄道株式会社会長の土川元夫の発想と決意によって誕生しました。両氏は金沢の第四高等学校で同級生でした。この建物の一室は、2人の偉人の功績をたたえる顕彰(けんしょう)室として、両氏の遺品などを展示しています。

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    会津若松市に建てられた旧安田銀行の若松支店。黒漆喰塗りの土蔵造りで、寄棟屋根に赤味がかった塩焼き瓦が葺かれています。室内は吹き抜けになっており、営業室の上にはギャラリーがあります。伝統的な土蔵造りの意匠をベースにしつつ、玄関ポーチや石積みの腰壁、営業室のカウンター、ギャラリーを支える円柱などには、洋風意匠が巧みに取り入れられています。

    安田銀行会津支店

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    明治23年(1890)に東京-横浜間で始まった電話交換業務が北海道で行われるようになったのは、同33年(1900)のこと。これにあわせて、高価な交換機を火災から守るために地元産のを石材を用いて建てられました。内部の床や間仕切り壁、小屋組は木造です。1階と2階の窓を違った形式で作り、2階の窓下に花紋を連続させた胴蛇腹をまわす手法は、ルネッサンス以降の西欧でよく見られるものです。
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    長野県木曽郡大桑村須原の中山道沿いに建てられた医院。建設年は明らかになっていませんが、移築解体時には紙張り天井の下張りから明治36年(1903)11月1日付けの新聞が発見されたため、それ以降の年と考えられています。
    大桑村須原は木曽路の中ほど、妻籠(つまご)と木曽福島の中間に位置し、木曽ヒノキの伐りだしを生業とした町です。この須原に生まれた清水半次郎(1868-1951)は、東京に出て西洋医学を学び、地元の木曽谷に戻って医院を開業しました。
    軒が漆喰で塗り籠められ伝統的な土蔵造にも見えますが、アーチ形の入口や窓、隅柱など洋風意匠を組み合わせていて、宿場町須原にあって目を引いたことでしょう。

    清水医院

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