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  ・聖ヨハネ教会堂 〜構造から見える物語〜
   
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  ・白く輝く内閣文庫の化粧煉瓦
  ・天を仰げば
   
  2006年 夏
  ・呉服座の観客席
  ・お洒落で衛生に配慮された明治の病院
   
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  ・車寄せの反響
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 やきものの国産暖炉

 明治10年代初め、東京上目黒に建てられた西郷従道邸(1丁目8番地)は、駐日外交官との接触も多かった従道が、外国の賓客をもてなす迎賓館として建てた洋館です。この洋館は、フランス人建築家レスカスによる設計と考えられており、カーテンボックス、扉金具などはフランスから輸入されています。天井高は3メートルほどもあり、土足履きで、各室にはそれぞれデザイン・材料の異なった暖炉が設置されるなど、本格的な作りになっています。
 洋館において、暖炉はその部屋の顔であり、日本でいう床の間にあたる重要なものとされています。各室の暖炉は、デザインを変えて設置される場合が多く、西郷邸もそれに倣っています。中でも異彩を放つのが、瀬戸の染付磁器で作られた二階応接室を飾る暖炉です(写真1)。

         
          写真1 西郷従道邸2階応接室

 他の洋館の暖炉をみると、15〜20センチ四方のタイルを組み合わせて装飾するのが一般的ですが、この応接室の暖炉は、幕板、両袖、天板という四個の大きな部材を成型・焼成し、組み立てる仕組みになっています。両袖には@松島、A安芸の宮島、幕板にはB天橋立と、日本三景の山水画が、さらに26.5センチ×150センチの大きな天板には富士山と三保の松原が染付けられ、暖炉いっぱいに日本の名勝が表現されています。この暖炉の製作者は、瀬戸で三代にわたって陶磁器生産を行った窯屋の二代目、加藤杢左衛門と推定されています。杢左衛門の窯は、職工30人を抱える大工場で、腕のよい職人・絵師が大勢働いており、大型製品を得意としていました。

      
   @松島            A安芸の宮島       B天橋立

写真2 暖炉詳細

 明治初年の瀬戸には、その特徴的な鮮やかな青の染付の顔料となる呉須(酸化コバルト)の使用方法や、石膏型による成型法など、多くの西洋技術が伝わり、新しいやきものを作り出すことが可能となっていました。また、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会への参加を契機として陶磁器輸出に拍車がかかり、明治政府の「殖産興業・輸出振興」政策の下、輸出への積極的な活動を展開し始めた時期でもあります。その後、明治9年(1876)のフィラデルフィア万博、明治11年(1878)の第三回パリ万博などに出品され、数多くの賞を受賞した瀬戸のやきものは、日本の草花、風景等を繊細にそして華麗に描きだすことから、世界的にも高い評価を受け、ヨーロッパのやきものに大きな影響を与えました。出品物には大円卓や、大花瓶等製作の難しいとされる大型のものが多く見られ、明治15年(1882)の不況による衰退が始まるまで、様々なものが製作されました。
 杢左衛門の窯でもフィラデルフィア、パリの両万博をはじめ、内国勧業博覧会に出品しており、数々の賞を受賞しています。パリ万博に出品したとされる、高さ2メートル以上もある大型の「染付花唐草文燈龍」や、大飾り壺、直径1メートルの大円卓などを製作し、海外へ輸出しました。
 一方の西郷従道は、明治2年(1869)のヨーロッパ視察後、日本の兵制、警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力していました。フィラデルフィア万博では、日本の事務局副総裁を務めており、この時に加藤杢左衛門ら瀬戸の陶磁器製造者たちとの交流が生まれたのではないかと考えられます。ウィーン万博を機に、日本独特の美を世界に発信し、同時に日本国内に対しても自国の陶磁器の価値を再認識させた瀬戸のやきものを、従道は認め、賓客を迎える応接室の「床の間」を飾ったのではないでしょうか。
 現在、この暖炉は西郷従道邸の建物ガイドでのみ、ご覧いただくことが出来ます。ゆったりとソファに腰掛け、明治初めの政治家による日本の殖産興業への熱い思いを感じていただければ幸いです。

 聖ヨハネ教会堂 〜構造から見える物語〜

 「森の小径」を登って行くと、周囲の自然と調和し、木々の色に溶け込むように建っている聖ヨハネ教会堂(1丁目6番地)(写真1)。到着したら、茶、白、緑を基調としたこの建物の外観を眺めてみてください。下層は煉瓦、上層は木材が使われ、屋根には軽い銅板が葺いてあります。実は、この構造から設計者の意図が見えてきます。

           写真1 聖ヨハネ教会堂全景

 下層の煉瓦は一部を除いて全て解体時の材料を用い、「イギリス積み」という、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れる積み方を取っています(写真2)。上層の木造部分は主に軸組に杉、他に松などが使われ、その上に白い漆喰が塗られています。また、創建から解体までは何度か改変が行われていますが、屋根は解体当時(1963年)、天然スレートが葺かれていました。定礎石から出てきた設計図の青写真には、「屋根ルブロイド(※)二枚重ネ品葺立瓦棒一寸五分角ニ尺間被亜鉛鉄板包ミ」という記述があり、もともと屋根はラバロイトで葺かれていましたが、短期間で破損したため、後に天然スレートに変更されたことがわかります。また、上記の記述から、金属屋根である瓦棒を葺く予定であったということが判明し、移築の際は、保存上銅板葺きにして改めました(写真3)。

             
      写真2 イギリス積みレンガ        写真3 銅板葺き屋根

 このように、上階になるにつれて軽くする構造、実は日本でよく起きる地震を意識して作られた、耐震構造として理解することができます。設計者はJ・M・ガーディナー(J.M.Gardiner 1857-1925)。スコットランド系米国人で、明治13年(1880)、米国聖公会より日本に派遣され、築地居留地内にあった立教学校(後の立教大学)の校長に就任しました。以来ガーディナーは日本で宣教師、教育家、建築家として過ごし、その生涯を東京で終えました。
 地震がめったに起こらない米国東部で育ったガーディナーにとって、地震自体、来日2日目にして日本で初めて直面したものと言います。また、来日当初の地震の様子などに関する記述も残していることから、ガーディナーの地震に対する関心が伺えます。更に、彼の耐震構造への意識を強めるきっかけになった出来事として、明治27年(1894)、6月20日の明治東京地震があげられます。地震の規模はマグニチュード7.0、30余名が命を落としたという大規模なもので、その時の様子が、「風俗画報」という明治22年(1889)に刊行が始まった、当時の世相や風俗を描いた雑誌に残っています。この地震により、ガーディナー自身が設計した立教大学も正面の塔が倒壊し、瓦礫の下敷きになった職員一人が死亡しました。その事実が、彼に多大な影響を与えたであろうことは想像に難くないでしょう。これは、ガーディナーがその後の立教大学再建にあたり、寄宿舎(明治28年)や尋常中学校校舎(明治29年)建設の際に見られるように、一階を煉瓦造、二階以上を木造とした、地震に配慮したと思われる煉瓦木造混合の構造法を取ったことからも伺えます。そしてまた、同じ構造法をとる聖ヨハネ教会堂も、この明治東京地震後の明治39年(1906)に着手され、明治40年(1907)に京都に建てられたのです。
 建物がどのようにできているか、その構造を知ることによって見えてくるものがあります。特に日本においては、地震と建物の関係は切っても切り離せない程深いものと思われます。構造は外観を見るだけでは分からないかもしれませんが、皆様も是非、建物の内外をじっくり見て、構造や材料などを手がかりに、建物が何を物語っているのか耳を傾けてみて下さい。

 (注)ルブロイド = 「ラバロイドとも呼ばれ、『Ruberoid Roofing』は、厚紙を母体とする
               屋根材の商品名を指す。」
               (明治村建造物移築工事報告書第五集)

 白く輝く内閣文庫の化粧煉瓦

 明治村5丁目59番地、小高い場所に建つ本格的ルネッサンス様式の建物は、明治44年(1911)皇居大手門内に創建された内閣文庫庁舎の本館です。内閣文庫とは明治政府の中央図書館のことで、かつては裏に書庫棟が続いていました。正面中央のギリシャ・ローマの神殿を彷彿とさせる意匠が目を引きますが、「堅牢ヲ旨トシ」(注1)とされたこの建物は、硬度の高い安山岩の石材と煉瓦を鉄棒で補強した構造(図1)です。外壁面仕上げは一階がモルタル塗り、二階には品川白煉瓦株式会社で製造されたといわれる白色小口タイルが使用されていて、明治村への移築当時、竣工以来70年近く経ちながら一枚のはく落も無かったと記録されています。
(図1)碇聯鉄構法『内閣文庫 建築調査記録』より

 タイルという名称が一般的になるのは大正11年(1922)の平和記念東京博覧会以降のことで、それ以前は化粧用煉瓦、張付化粧煉瓦、装飾瓦など様々な呼び名が使われていました。明治時代になって建築されるようになった煉瓦造建造物の仕上げには、品質の良い「表積煉瓦」が使われていましたが、それに代わるものとして登場したのが煉瓦より薄い外装タイルです。明治20年(1887)現在の埼玉県深谷市に設立された日本煉瓦製造会社は化粧煉瓦焼成用のカッスレル窯(注2)をドイツから輸入設置し、明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会には「装飾煉瓦石」を出品すると同時に「煉瓦陳列館」というパビリオンも出展しています。続いて大阪窯業、岡山の備前陶器の各社も「張付化粧煉瓦石」の製造を開始し、外装タイルの発展が始まりました。
 備前陶器株式会社のタイルは、明治42年(1909)竣工の旧赤坂離宮(注3)、明治44年(1911)竣工の横川工務所による帝国劇場(注4)にその名が出ています。内閣文庫の設計者大熊喜邦は大学卒業後横川工務所に入所しており、帝国劇場の基本設計に大熊が関わったともいわれ、その後大蔵省に入省し、初の設計となった内閣文庫で外装材として人気が高まってきたタイルを用いています。
 備前陶器株式会社は明治42年に磐城耐火煉瓦株式会社と合併して日本窯業株式会社備前支社となりますが、明治45年(1912)7月15日付日本新聞の記事に
銀座の電車交叉点附近に自製の各種化粧色煉瓦を張付けた小規模乍ら胸の透くようなハイカラな建物は・・・日本窯業株式会社のオフヰッスで、その工場は備前伊部町及び磐城平町とに在り、何れも約一万余坪の広大な敷地を有している
と紹介され、どんな家屋にも容易に貼付し得るこの建築用材は建築界に大変革をもたらしているとその盛況さを伝えています。
 明治村の内閣文庫と同じ5丁目に東京駅警備巡査派出所(写真3)があります。大正3年(1914)竣工の東京駅前に駅本屋との調和を図るため、駅舎と同じようにデザインされた派出所です。東京駅は鉄骨煉瓦造、派出所は当時最新の鉄筋コンクリート造ですが、そのどちらも表面に化粧煉瓦が張られています。これだけ巨大な建築の外装をタイルで装飾したのは初めてのことで、以後外装タイルの需要は一段と高まっていきます。日本窯業株式会社備前支社となった備前陶器株式会社は大正5年、この品川白煉瓦株式会社の岡山工場となり現在に至っています。
 明治期から大正期にかけて煉瓦造が鉄筋コンクリート造へと移行する中で、その表面を化粧煉瓦から煉瓦形状のタイルに置き換えていく。内閣文庫はそんな我が国のタイル外装の始まりを静かに物語っています。

(注1)『内閣記録課付属書籍庫』の記載より
(注2)カッセル窯ともいう
(注3)『明治工業史建築編』464項「・・・東西三角中坪の外壁には、在岡山備前
    陶器株式会社の製造に係る陶製白色煉瓦を使用したり」
(注4)『同上』718項「外部は備前伊部の装飾煉瓦貼りたる鉄骨構造」

 天を仰げば

 純白の衣をまとったカトリック教会堂――聖ザビエル天主堂(5丁目51番地)は、明治23年(1890)京都市中京区河原町三条にフランシスコ・ザビエルの来京を記念して献堂された建物です。ほの暗い聖堂の中に入ると、彩り豊かなステンドグラスのむこうに天井のリブ・ヴォールトが広がり、リブ(注1)の交差箇所にボス(BOSS)(写真1)と呼ばれる装飾が付けられています。
 ボスは、日本では「辻飾り」と呼ばれ、木造の格天井などの十字に交差した所に設けられる装飾をいいます。一方、教会堂ではゴシック様式の特徴である交差リブ・ヴォールトに設けられ、その材質は石や木などが用いられ、木製のものは胡粉を塗り、彩色が施されています。文様は、すべてキリスト教に関連したテーマにより形作られており、教会堂に貢献した人々にちなんだもの、聖書から引用された故事や人物、聖人、動植物など様々な種類が見られます。日本においてはカトリック教会堂に見られますが、あまり多くは存在しません。古くは、元治元年(1864)に建てられた大浦天主堂に確認され、また、紋章(ARMES)と銘句(DEVISE)が描かれているものには、明治11年(1878)に献堂された築地聖ヨゼフ天主堂に確認されます。
 この聖ザビエル天主堂にも身廊天井及び側廊天井のリブが交わる箇所にボスがあります(図1)。とりわけ身廊天井の8個のボスが大きく、直径392ミリ、高さ110ミリで鏡餅のような形になっています。材質は欅(けやき)で重量は約6キロ、文様は丸彫りで、生地に胡粉を塗り着色がされていますが、金や銀も塗られていました。今回この8個のボスの内の3個をご紹介いたします。



(写真1)聖ザビエル天主堂の天井



(写真2)1のボス

(図1)天井伏図
●がボスの位置

 内陣の祭壇の上に位置するボス(写真2)は、司教の杖によってフランシスコ・ザビエル(FranciscoXavier)の頭文字FとXを組み合わせたモノグラムで、周囲をアカンサスの葉で取り囲んだ文様が施されています。この場合の×マークはXですが、十字架を45度回転させた×マークは、キリストを象徴する装飾文様としても用いられます。
 二番目に位置するボス(写真3)は、柘榴をかたどったものです。柘榴模様はルネサンス期にイタリアを中心に用いられ、多産・豊穣の瑞祥模様として流行しました。また、実の中に秩序正しく並んだ多くの種は、権威による統一、特に「教会」そのものをあらわします。

              
       (写真3)2のボス             (写真4)4のボス

 四番目に位置するボス(写真4)はミドン司教(注2)の紋章です。ミドン司教は日本に駐在していたパリ外国宣教会のうち、当時京都を管轄する中部代牧区におり、この天主堂の定礎式において礎石を置き、翌年5月の献堂式ではクーザン司教と共同で式を執り行ないました。周囲をカーディナルハット(注3)で取り囲んでいますが、緑色で左右6個合計12個の結び飾りは司教位を表しており、神の計り知れない無償の恵みと、それに伴う使命を表します。下部のリボン状の帯にはミドン司教の銘句「我々を愛してくれた人のために――PROPTER EUM QUI DILEXIT NOS」が刻まれています。
 その他のボスには、蓮花をかたどったもの、教会に貢献された司教とその銘句、紋章などが掲げられています。
 聖ザビエル天主堂は、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してから、後奈良天皇に布教の許しを請うため天文19年に来京し、仏教の都――京都での宣教を夢みて「京の都に聖母に捧げた教会を」との祈りに由来して、およそ350年を経てビリオン神父らによって実現した教会堂です。その内部の天井を飾るボスは単なる装飾ばかりではなく、その一つ一つに宣教への祈りを込めたものであり、ザビエルや宣教に携わった人々の志と熱き思いをひっそりと今に受け継ぐ形なのかもしれません。

(注1) 天井のヴォールト内輪にとりつけた細いアーチまたはその一部。
(注2) MIDON,Felix-Nicolas-Joseph(1845〜1893)明治4年に来日。横浜・東
     京・長崎で教導したのち横浜聖心聖堂の主任司祭となり、明治21年大阪
     司教座に移り、京都聖ザビエル天主堂建設の責任者となる。
(注3) カトリック司教の帽子。結び飾りの色と数によって聖職者の位階をあらわ
     し、赤色で左右15個合計30個の枢機卿のものが最高位。

 呉服座の観客席

 呉服座(4丁目49番地)は明治初年に大阪府池田市に戎座(えびすざ)として誕生し、後に呉服座(くれはざ)と改称、昭和44年まで使われていた芝居小屋です。この小屋の客席は今の劇場とは大きな違いがあります。
 まず、中央には四角く仕切られた「桝席(ますせき)」があります。大人が4人ほど座れる席で、「場」とか「平場」と呼ばれ今日の二等席に相当する席でした。この席は舞台に向って緩く前傾しており、後ろの人でも無理なく舞台を見ることができるよう配慮されています。
 次に平場の両脇には「桟敷(さじき)」と呼ばれる席があります。桟敷は古代社会においては「仮床(さずき)」と呼ばれ神様を呼び寄せる場として作られた高い台で、神に供え物を捧げる場所としての性質も併せ持つ場でした。時代が下ると、お祭りや芸能を鑑賞するための高い位置の席を指すようになりました。芝居という言葉はもともと「芝生に座る」という意味から来ていますが、その芝生の周囲に設けられた特別席が桟敷でした。現代の劇場なら中央前方が高級席ですが芝居小屋では舞台を斜めに見る事を強いられるこの席が高級席でした。
 愛媛県の「内子座」には上手(舞台に向って右)の桟敷に「本家席」がありました。また秋田県小坂町にある「康楽館」の二階桟敷前には火鉢や靴を置くスペースが設けられ、平場にはない上客に対する配慮がうかがえます。
 呉服座の建っていた大阪と兵庫の県境の猪名川流域は地芝居が盛んな土地で、地元の人は普段、神社の野天で演じていましたが、特別な時にはこの呉服座の舞台に立つことができました。また、巡業する古典演劇や大衆芸能も行なわれ池田周辺や能勢、丹波山地からも観客を集めました。毎年5月から6月にかけて公演される歌舞伎はそら豆の収穫期に当り、そら豆入り弁当を持参し幕間を利用して食べていたそうです。当時芝居は人々の最大の娯楽であり、こうした芝居小屋はまさに「娯楽の殿堂」でありました。

    
        ※桝席                 ※舞台から客席を望む

 お洒落で衛生に配慮された明治の病院

 日本赤十字社中央病院病棟(4丁目35番地)は木造洋式病棟で、赤阪離宮と同じ片山東熊の設計で、室内の衛生を保つためとくに換気に配慮された建物になっています。
 部屋の空気を清浄に保つため、病室の天井の四隅には換気口(写真1)が設けられ、屋根にある三基の換気筒へ空気を導いています。土中の湿気を避けるため、レンガ基礎を高めに積み上げて地面から高い位置に床を設け(写真2)、病室内の床面には開閉自在の換気口(写真3)を備えています。
 換気は室内の空気を浄化する作用があると考えられ、ナイチンゲール(1820〜1910)もその著書(注)の中で次のように記しています。『窓は、下部でなく上部を開けること。(中略)換気とは、要するに(部屋の)空気を清浄に保つこと、それだけを意味するのである。これを判定する適切な基準としては、朝、寝室あるいは病室から外気の中へ出てみることである。そして再び戻ったときに、少しでもむっと感じるようであれば換気は充分でなかった(後略)』
 換気に次いでナイチンゲールは『新鮮な空気に次いで病人が求める二番目のものは、陽光をおいてほかにはない』とも記しています。この日本赤十字社中央病院病棟は明治村への移築に際し、敷地の制約のため建物の方位が180度変えられており、現在南に面している全面ガラス張りの廊下は本来北側にありました。暗くなりがちな北面を明るくするため、廊下をガラス張りにし採光に配慮したものです。そのほか廊下の隅を少しカーブさせ、ほこりが留まらないような工夫(写真4)がなされているところもあります。
 外壁はハーフティンバー風のデザインが取り入れられ、軒先には華やかな軒飾りが廻らされています。現在北側になって目立ちませんが鎧戸の上部には草花をモチーフにした透かし(写真5)があり、明治二十三年に建設されたとは思えないほど洒落た印象を受けます。煉瓦造の本館は関東大震災で被害を受けてしまいましたが、移築されている木造の病棟は昭和四十年代まで使用されていました。

               
   写真1 天井の換気口  写真2 床下換気口   写真3 床の換気口

                  
            写真4               写真5

(注)「看護覚え書」(F・ナイチンゲール著 薄井担子他訳 現代社 二〇〇四)

車寄せの反響

 京都市電の七條駅の坂を登ると、そこに北里研究所本館(3丁目25番地)があります。明治時代、当時ヨーロッパでは細菌学が発達しており、それを学ぶためにドイツに留学し、コッホ(*1)に師事した日本人が数多くいました。とにかく病気には何らかの細菌が関係しているとされ、顕微鏡を片手に日々細菌を発見することに力が注がれました。この建物の内部には、当時使われていた顕微鏡が多種展示されています。普通、大きな事務所や学校などの建築では、廊下を北側にとって明るい南側に部屋を作りますが、この建物の場合は逆で、北側に研究室、南側に廊下があります。これは、一日のなかで光に変化の少ない北面に研究室を配置したほうが、顕微鏡観察に適していると考えられたためです。
  さて、今回この建物で注目するのは車寄せの部分です。皆さん、車寄せに立って一度手を叩いてみてください。すると、ビーンと日光の鳴龍(*2)のように反響します。北里研究所の車寄せの場合、西洋流に見ると少々下手な天井蛇腹がつくられています。全体として湾曲した天井のようになっているため、反響します。天井が漆喰塗り、床がモルタルで、お互いに硬い材料なので音が吸収されないせいもあるようです。一方、日光東照宮本地堂の場合、天井は檜材でつくられていますが、中央あたりがお椀状にへこんでいるため、反響するのだそうです。本地堂のように広い天井を一枚板で張ると中央あたりが下がった感じにみえます。実際に年月がたつと下がってくるので、それを見越してあらかじめ持ち上げてつくったので、鳴龍の状況ができたそうです。ちなみに床材は、かつては板で現在はS畳ですが、反響に変化はないようです。 北里研究所の車寄せの音は、決して意図してつくられたものではありませんが、結果として同じような現象が起きています。明治時代、それまでの伝統的な寺社建築の手法を離れ、西洋風の建物が次々に建てられましたが、思わぬところで共通点が見つかり、興味深いものがあります。*1 各種の伝染病には、一定の病原菌が存在することを証明し、細菌学の基礎を築いた人物。結核菌、コレラ菌などを発見した。

*東照宮境内にある本地堂の内陣の天井に描かれた龍のちょうど頭の真下で拍子木を打つと「きるるるー」と残響音が響き渡り、それが龍の鳴き声のように聞こえる。

※写真上:車寄せ
※写真下:車寄せ天井


軍艦島

 長崎居留地二十五番館(3丁目31番地)の中に、通称軍艦島と呼ばれる島の模型があります。軍艦島とは、正式名称を端島といい、総面積は約6.3ヘクタール、長崎県長崎市の沖合に浮かぶ炭坑遺構です。明治時代から開かれた三菱財閥所有の海底炭坑の島で、石炭採掘のため周囲を埋め立てながら護岸堤防の拡張を繰り返し、現在の形になりました。海上から見たそのシルエットが、旧日本海軍の軍艦「土佐」に似ていることから、軍艦島という俗称で呼ばれています。ここでは良質な強粘炭が取れ、産出された石炭は主に八幡製鉄所に供給され、隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えてきた炭鉱のひとつでした。  1916(大正5)年以降は、従業員の住宅として日本初の鉄筋コンクリートの集合住宅群(地上7階建て)の建築が始まり、それは第二次世界大戦中の物資が乏しい状況の中でも建設が続けられていました。最盛期には5300人が住み、その人口密度は世界最高(東京の9倍)にもなりました。さらに島内には作業場や住宅のほかに,7階建ての小中学校,共同浴場,公園などの公共施設,映画館などの娯楽施設,料理屋や販売所,神社,手術室完備の病院などもあり、島内において完結した都市機能を有していました。
 1960年以降、主要エネルギーが石炭から石油へ移行し、それによって島は急激に衰退します。1965年に新坑が開発され一時的に持ち直しましたが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974(昭和49)年1月15日に炭坑は閉山しました。約2000人まで減っていた住民は4月末までに全て島を離れ、現在は無人島となっています。
 2001年、軍艦島は三菱から長崎市へ無償譲渡されました。無人化により長く放棄され現在では建物は廃墟と化しており、倒壊の危険性もあって立ち入りを禁止されていますが、近代化遺産として、また初期集合住宅の遺構としても注目されています。

※写真上:長崎端島模型
※写真下:集合住宅群
 
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