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明治10年代のはじめ、東京上目黒に建てられた本格的西洋館である西郷従道邸(1丁目8番地)。ここには流れるような曲線の美しい廻り階段があります。フランス人レスカスの設計と云われている西郷邸は、優雅な外観にふさわしくカーテンボックスや扉金具など内部を飾る殆どを本国から輸入しており、実はこの廻り階段も舶来品です。よく見ると手すりには切込みがあり、組み立て式の階段となっているのがわかります。
日本の住宅は平屋を旨としてきた歴史があります。江戸時代には身分の低い者が高い所に住まうのは失礼と、一般住宅の二階建ては禁止されていました。町屋では「厨子(つし)二階」と呼ばれる天井の低い二階があり、格納や簡易の寝室として使用されていましたが、そこでの階段は段梯子(だんはしご)でしかも襖に隠され、すぐには見えないようにしてありました。(村内丁目の中井酒造がその形式です。)つまり日本においての階段は決して晴れがましいものではなく、単なる通路と考えられていたのです。
しかし、この階段が表の階段、見せる階段として変化したのが明治でした。西洋では古くから優雅な階段がたくさん造られており、昇降という機能だけではなくそこに芸術性を求められました。ドレスの似合うこの西郷邸の廻り階段もただ美しいだけではなく、とても昇り降りしやすい優れた階段になっています。そして興味深いのは、西洋建築を取り入れた明治時代の日本の邸宅では、この見せるお客様用のメイン階段と使用人用のサービス階段の二つが建物内に区別して造られていたところです。使用人用の裏階段は襖や板戸で隠されて見えない工夫がしてあることが多く、ここ西郷邸にも玄関ホールの扉の裏には狭くて急なもう一つの裏階段があります。そうつまりメインの廻り階段はお客様の気分を二階へと高揚させる、華やかな表舞台の階段なのです。 |
※写真:西郷従道邸廻り階段 |
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森鴎外・夏目漱石住宅(1丁目9番地)は夏目漱石が明治36年から同年まで借りて住んでいた家です。小説「吾輩は猫である」はこの家をモデルにしたとみられ、その中で当時の中流家庭の台所の様子が「猫」の目を通して詳しく描写されています。
畳数にしたら四畳敷もあろうか、その一畳を仕切って半分は流し、半分は酒屋八百屋の御用を聞く土間である。※へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派な者で赤の銅壺がぴかぴかして、後ろは羽目板の間を二尺遺して吾輩の鮑貝の所在地である。茶の間に近き六尺は膳椀皿小鉢を入れる戸棚となって狭き台所をいとど狭く仕切って、横に差し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。
明治40年でも水道の普及率はわずか8.4%。漱石の家の水源は庭に掘られた井戸で、手桶で水を汲み水瓶にたくわえた水を使って、一段低くなった流しでかがんで、米を研いだり、野菜を洗っていたようです。台所の床の一部は揚げ板になっており、床下収納庫として燃料の炭や薪が納められ、その炭や薪を用い、御飯は竃で炊き、煮物・焼き物は七輪で調理しました。また、天窓がない住宅では煙が多くでる調理は外でしか行うことができませんでしたが、この住宅の台所には天窓が設けられており、調理作業が屋外から室内へ移行する過程といえるのではないでしょうか。
坐式の台所作業が立式に変わっていくのは、明確ではありませんが、明治36年に出版されたベストセラー「食道楽」に描かれている大隈重信邸や岩崎弥之助邸の台所が大きな影響を与えたかもしれません。大隈邸の台所は板敷とセメントの土間が半々、そしてガス竃を備え、当時あまり調理用には使用されていなかったガスの利点を大きくアピールし、岩崎邸でもやはりすべて板敷で立式の清潔な台所の様子を美しい挿絵で紹介しています。
大正9年に建てられた西園寺公望別邸「坐漁荘」(3丁目27番地)の台所は現在とほぼ同じです。明治時代と大正時代の二つの台所を比べてみてはいかがでしょうか。
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※「へっつい」竃
※写真:夏目漱石住宅台所 |
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明治時代には、外国人のためのホテルや住宅として洋風建築が多く建てられ、それに伴って西洋から洋風庭園の手法も導入されました。>
和洋を問わず、庭の表面が裸地のままということはなく、普通は植物を用いて地表を覆います。それを地被植栽といい、伝統的な純日本庭園ではコケや笹、シダ類が使われる一方、西洋では芝が使われます。コケ類などが、木漏れ日程度の弱い日光が差し込み湿気のある場所でよく生育するのに対して、芝は日当たりの良い場所でないと育たないという性質があります。そのため、芝生の周りに日光を遮る大型の樹木を植えたり、生垣や塀を造ったりすることはまずありません。日本庭園からは閉鎖的で幽玄な印象を、洋風庭園からは開放的で明るいイメージを感じますが、日本人と西洋人の庭に表現する思想の違いが、それぞれの庭園に使われる植物の種類の違いとしてもよく現れています。
明治に活躍した造園家に七代目小川治兵衛(屋号:植治)がいます。彼は明治新政府で活躍した山県有朋の京都別邸無鄰庵(京都)の庭園の施工にたずさわり、施主の山県の庭園観に大きな影響を受けて自然主義的な近代日本庭園の手法を確立しました。その作庭は、仏教や禅の思想を象徴的に表したこれまでの庭園とは異なり、自然の景観をそのままに表した作為のない庭を造るというものでした。植治は、琵琶湖の水を利用した流れと明るい芝生広場を設けた無鄰庵を始めとして、他にも数多くの有力者の邸宅・別荘の造園を手がけています。西園寺公望にも引き立てられ、別邸「坐魚荘」(3丁目27番地)の庭も植治によるものと記録されています。明治村の日本庭園は、この無鄰庵と同じ手法で作られた滝と渓流を写した写実的な部分(自然主義の庭園)と、開けた芝生の平庭に園路として曲線の砂利道を設置し、あずまやとして据えた東京盲学校車寄(1丁目10番地)を囲んで丸刈物を植栽するという洋式手法を用いた部分という二つの庭園形式からなっています。
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※写真上:渓流
※写真下:東京盲学校車寄と芝生 |
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明治村5丁目56番地の大明寺パウロ教会堂の中に「ルルドの洞窟」があります。ルルドとはフランス南部のピレネー山脈麓の町名です。この町で1858年(安政5年)2月11日、当時14歳の貧しい粉屋の娘ベルナデット・スビル(Soubirous , Bernadette)が、妹と薪を拾いに出かけたところ、マサビエル岩と呼ばれる洞窟の前で突然聖母マリアが出現され、「私は原罪なくして生まれた者です」と名乗られ、「罪人の為に祈りなさい」と言われました。その年の7月16日までに合計18回も出現され、そのしるしとして多くの奇跡が起きました。また聖母が出現された洞窟の指示された場所を掘ると水が涌き出し、その水を飲むと重病の患者が奇跡的に治りました。これが「ルルドの聖水」といわれるもので、全ての人の病気回復につながる訳ではありませんが、精神的治癒とでも言ったらいいのか霊的な恵みに満たされて感謝と喜びでいっぱいになるのは事実でした。入念な調査の後、1862年にローマ教皇庁がこのルルドで起こった奇跡を公認したことを機に、聖母マリアが出現されたマサビエル岩を模した「ルルドの洞窟」が世界各地の教会堂に造られるようになりました。
1879年のべルナデットの死後、1933年にはローマ教皇庁により彼女は聖女に列せられ、記念日は彼女が亡くなった4月16日とされました。ベルナデットが掘った奇跡の泉は、現在に至るまで枯れる事はなく多くの人たちの心と体を癒し続けています。また彼女の遺体はヌベール(Nevers)の修道院の聖地に安置され、生前と変わらぬ姿で安置され信仰の対象とされています。
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※写真上:ルルド洞窟マリア像
※写真下:大明寺パウロ教会堂内内陣のルルド洞窟
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聖ザビエル天主堂の堂内に足を踏み入れて背後を振り返ると、直径3・6メートル極彩色に輝くバラ窓(Rose window)があります。
このバラ窓のオリジナルは木製の枠で出来ており、色ガラスに白ペンキで草花文様が描かれています。このペンキの風化を防ぐ為、色ガラスの外側にもう一枚の透明ガラスを重ね、二重ガラスの構造になっています。
ひときわ大きな円形は、開いたバラの花弁を思わせるところから「バラ窓」と呼ばれていますが、放射状に伸びた十二本の線は、キリスト教を広めるため方々に散らばった十二使徒を象徴しています。また、キリスト教において赤いバラは殉教者の血を象徴し、白いバラは聖母マリアの純潔のシンボルを表していることから、しばしば教会堂内の文様に用いられました。
さて、ステンドグラスは印刷技術が未発達の頃、信者に聖書の教えを視覚的に唱えるものとして用いられ、その起源は十二世紀中頃から十五世紀に発展したフランスのゴシック様式にさかのぼります。それまでのロマネスク様式に代わって、都市を中心にいくつもの尖塔を持つ大聖堂の建築が相次ぎました。尖頭アーチを交差させることで、天井の重量は柱に分散され、より高く、広い空間が出現しました。天井を支える必要性がなくなった壁は開放され、大きな窓がとられ、ステンドグラスがはめ込まれました。これにより堂内は神の世界を彷彿とさせる神秘の光で満たされるようになったのです。
昔から神は光であると言われています。天井にあるバラ窓から降り注ぐ光は、まさに普く人々を照らす一条の希望の光であり、祈りを捧げる度にバラは花咲き、聖母マリアの慈愛に包まれます。 |
※写真:聖ザビエル天主堂のバラ窓 |
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明治40年(1907)に石川県金沢市に建てられた金沢監獄。明治村には正門(5丁目52番地)と中央看守所・監房(5丁目62番地)が移築されています。この洋式監房の中には独居房が整然と並び、その扉の下部には食事を出し入れするための小窓と、1〜5までの番号がついた黒板が取り付けられています。実はこの番号は囚人たちの主食の量を表すもので、マスに印をつけ看守たちはそれを目印に食事を配っていたのでしょう。
江戸時代から明治時代初めまでは、統一した規則がなく、刑の重さや性別によりそれぞれの食事が定められていました。全国的に法が制定されたのは明治5年の「監獄則並図式」からです。ここでは刑の重さによって食事量が決められていましたが、明治14年の「改正監獄則」以降は、監獄内での労働量を基準とするようになりました。重労働者は七合、軽労働者は五合、労働をしていないものと満十歳以上の未決者は四合、十歳未満の子供は三合というように決められ、さらに白米と麦の割合を4対6と定めていました。昭和24年に定められた「収容食料給与規定」では一等食3,000、ニ等食2,700、三等食2,400、四等食2,000、五等食1,800calと、五段階に分けられていることから、明治村に移築された扉の番号は、この時のものと考えられます。
さて、近年この主食を入れていた器が金沢市の金沢監獄跡地から発掘されました。その中には「監」というマークが入ったどんぶりの器と、対となるような蓋が出土しました。明治36年の司法省監甲訓令ではその食器用途別の大きさと使い方も定められており、その中でどんぶりの蓋にはおかずをのせるように注釈がつけられています。監房の扉の食事孔は縦16.5×横18.0cmと小さいので、ご飯どんぶりを先に配り、後から蓋に入れたおかずを配った、と考えられます。
いつ出られるともしれない監獄の中で、囚人達は小さな窓から差し出される食事を楽しみにしていたことでしょう。 |
※写真上:金沢監獄房(独居房)の扉
※写真下:扉の食事出し入れ口 |
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名古屋衛戍病院(4丁目37番地)は、明治十年頃、名古屋城三の丸に建設されました。戦
後は国立名古屋病院の施設として用いられ、取り壊しに際し管理棟と病棟の一部等が明治村に移築されました。この病院は管理棟の左右から直角にのびる渡廊下に六つの病棟が平行に並ぶ、パビリオン形式の病院としては初期の頃のものと言われています。
構造は木造瓦葺平屋建です。当時は松材や樅材を用いると、木材から発生する過酸化水素による殺菌効果で、入院患者の膿毒症などの症状から免れる利点があると考えられていました。
この病院は、衛生に配慮した換気システムが取り入れられているのが一つの特徴です。俯瞰した写真をみると、三つの越屋根―@トイレの天井A個室中廊下B外科病棟の一室の中(レントゲン「ダイアナ号」展示室)―があります。@は細板菱張り、ABは天井を見上げると約1.5m四方の枠に囲まれた部分があります。その枠に囲まれた部分の中心を軸に回転することで、蓋がダンパー※の役目をし、病室内の空気を一新する時などに使われていました。
これからはレントゲン・ダイアナ号の展示室に入った時、いつもより目線を上にして、この天井にも目を向けてみてはいかがでしょうか。先人達のより快適に生きようとする知恵を感じ取ることができます。
※ダンパー(damper)
空気調和や換気において用いられる風量調節および閉鎖用の羽根、または板状の扉。ダクトの途中や吹き出し口、吸い込み口に取り付けられて風量の調節に用いられる。
管理棟 病棟
  
@トイレの天井 A個室中廊下の天井 B外科病室の天井 |
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工部省品川硝子製造所(4丁目45番地)前庭にある八角形に積まれたレンガは、新橋駅に付随する工場群の電力供給のため建設された火力発電所の煙突の基礎部分です。
明治五(一八七二)年、日本初の鉄道駅として開業した新橋駅には、待合室やプラットトップページといった旅客輸送に直接関わる施設のほかに、機関車の修復を行う工場や、外国人技師の官舎などがありました。これらの施設は明治三十年以降の東海道線の複線化などに伴い、次第に機能を拡充していきました。特に工場施設が整い、車両のメンテナンスのほか、信号機や膨大な数の車両の部品に至るまでを製造するようになり、さらに各地の鉄道車両の製造・修理も同時に受け持っていたため、鉄道網が広がるにつれ作業量は飛躍的に増大していったのです。
明治三十五(一九〇二)年、これらの工場に電力を供給するのを主目的として、駅構内に火力発電所が建設されました。火力発電所は高さ約二十五メートルの煙突を備えており、石炭を燃やして蒸気を発生させ、その動力でタービンを回し発電していました。耐火煉瓦を用いた八角形の基礎部分は二十五段のピラミッド状に積み上げられ、さらにその下部には厚さ一メートルのコンクリートの基礎や捨て杭も見つかるなど、非常に精密な構造をしていたことがわかります。
大正三(一九一四)年に東京駅が開業すると、貨物専用の駅「汐留駅」と改称され、以後関東大震災で焼失するまで、汐留駅は貨物輸送の基地として東京の物流を支えました。
現在、汐留地区の発掘・再開発にあわせて、当時と同じ場所に「旧新橋停車場」として駅舎外観が復元されています。また、明治村三丁目にある汐留レンガ迷路は、このとき発掘されたレンガを用いて作られたものです。 |
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呉服座(4丁目49番地・重要文化財)正面の切妻【きりづま】には太鼓櫓があります。「やぐら」とは、もともと弓矢などの武器を入れる倉、つまり矢倉から出たと言われ、古くは、城郭建築で敵に対して弓矢・礫【れき】などによる防戦や物見のために建造されたものが、後に歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場の正面出入り口の屋根の上にものせられるようになりました。
江戸時代には、幕府=奉行所の許可を得た芝居小屋のみが歌舞伎興行を許され、その官許の興行権所有のしるしとして、座元【ざもと】(興行の責任者)は小屋に櫓をあげ、櫓の三方に座の定紋【じょうもん】を白く染め抜いた櫓幕を引きまわしました。
櫓の中には大太鼓が据えられ、興行の開始・終了の合図としても使われましたが、座元としてもっとも有名な江戸三座では、正月元日や歌舞伎の顔見世初日である十一月朔日【ついたち】に太鼓が打ちならされました。櫓前方の2本の柱に立てられた御幣(幣束)は「梵天【ぼんでん】」とも呼ばれ、櫓が元来神を招き入れるために天へ向けて高く掲げられたものであったことを示しているといわれています。すなわち芸能の場は「まつり」の場であるゆえに、そこに神を招き迎えねばならないと考えられたのです。観客である庶民も、天高く櫓を仰いで天下泰平と芝居の繁栄を祈り、歓楽の一日の安心を得ていたようです。
しかし、櫓は当初かなり大きかったので、しばしば屋根が壊れ修理費がかさむという理由などにより、明治十年頃より、劇場から消えていきました。それは、歌舞伎が日本芸能の精神的伝統から離れて近代化されていく過程とも軌を一にしていました。 |