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フレネル・レンズ

 明治3年に東京の台場に建てられた品川燈台(3丁目29番地・重要文化財)は、観音崎・野島崎についで日本で三番目に建てられた洋式燈台です。大正十二年の関東大震災により先の二燈台が倒壊したため、日本で現存する最古の洋式燈台となりました。
 燈台は大きなレンズからの明かりで船の安全を守ってきました。この品川燈台の明かりは点滅しない不動灯で、光は約十八キロ先まで届きました。レンズはフランスから輸入した十三層のフレネル式の不動レンズを使用しています(写真1)。
 フレネル式とは、光の偏光や複屈折の研究を重ね、光に関する新しい考えを応用し燈台のレンズを発明したフランスの物理学者オーギスティン・フレネル(Fresnel,Augustin Jean)の名前からつけられその特徴は表面が凸凹している点にあります。普通の凸レンズは、丸くて中央が膨らんだ物ですが、灯台のように何キロも先まで、光を届けるための大きな凸レンズを作ると中央が厚くなりすぎて困ります(図1)。そのため、凸レンズを削ることで、厚みと重さを減らし(図2)、そして、光の進み方を変えることなく作りやすい形にしました(図3)。これは光学的に凸レンズや凹レンズの効果を持ちながら、形状は平板状のレンズということになり軽量化に大きな効果を発揮しています。さらに大きな燈台のレンズはフレネル式のレンズにプリズムを組み合わせて、より強い光が出せるようになっています。
 時代と共に燈台のレンズも改良されましたが、現在でも燈台で使用されているレンズのほとんどはフレネルの原理に基づいており、フレネル・レンズは燈台にはなくてはならない重要な役目を果たし続けています。
 


坐漁荘のガラス

 大正八年に建てられた明治の元勲西園寺公望別邸「坐漁荘」(3丁目27番地)の建具には、板ガラスがふんだんに使用されています。
 明治維新を契機に押し寄せた西洋化の波により、西洋建築の技術が日本に伝えられると、国内でも板ガラスが建具に使用されるようになりました。しかし当時の日本には板ガラスを作る技術はありませんでした。
 明治六年、明治政府の支援のもと日本初の板硝子製造会社「興業社」が設立され、板ガラスの製造を試みましたが失敗。その後民間人の協力も得ながら板ガラスの製造を試みましたがまたもや失敗と、失敗の連続でした。そのためベルギーはじめ欧米からの輸入に頼る時代が続き、明治四十年に「旭硝子」により、やっと日本でも本格的な板硝子製造が始まりました。
 坐漁荘の建築時、国産の板ガラス生産は既に始まっていましたが、「元老西園寺公のご老体が風邪でも罹らぬように」との政府の配慮もあったようで、南側(現在は入鹿池側)に面した建具は、階上階下とも紫外線を透視する「並厚ヴァイタガラス(Vita glass)」が使用されています。現在では日焼けの原因となり、疎まれる紫外線ですが、当時は、日光浴が健康によいとのことで、このヴァイタガラスは部屋にいながら日光浴ができる画期的なものとされていました。
 坐漁荘建築にあたり、急ぎ必要になったヴァイタガラスですが、日本には在庫がなく通常輸入には数ヶ月を要するものでした。しかし運良く日本郵船の新造船で欧州航路の豪華船・諏訪丸がベルギーのアントワープ港を出航する間際に政府の働きかけもあり、無事ガラスを積込むことができ、短期間で静岡まで運び、関係者を大変喜ばせたそうです。
 明治村の坐漁荘には当時の日本では高価な板ガラスであると共に、品質が厳選されたヴァイタガラスが嵌め込まれています。近代史を振り返りながら一度訪れてみてはいかがでしょうか。


音の鳴る床

園寺公望別邸・坐漁荘(3丁目27番地)の二階の廊下の床は「キュ、キュ」と独特の音が鳴ります。音の鳴る床に関しては、古くは平安時代につくられた清涼殿の孫庇南端の一枚の床板があります。ここの板だけは釘付けをせず、踏めば音が鳴るように意図的につくられ、「鳴板」と呼ばれています。見参の人が、天皇のそばに行ったとき、鳴板があることで天皇は何の合図がなくても、人の気配を感じることができました。
もう一つ音の鳴る床として一般的に知られているのは、二条城や知恩院などの床です。床板をきしませる音が鶯の鳴くように聞こえることから「鶯張り」と呼ばれています。鶯張りについてはいつ頃から作られ始めたのかはっきりしませんが、おそらく江戸時代前期だろうと思われます。
 鶯張りの音は床の張り方と関係します。上等の木造建築では、根太に床板を取り付ける際、釘頭の出るのを避けるため、床板の側面に目かすがい※の一端を打ち、他端を根太に打って留めますが、広い床板では両側が多少上方に反るので、かすがいの穴にいくらかゆとりをもたせてあります。これを踏むと目かすがいが上下し、目かすがいと釘が擦れ合い音がします。この効果については、当初から考慮されたものか、長い年月のあいだに自然にゆるみを生じてのものかは、はっきりしていません。
 さて、坐漁荘二階の廊下の床については、果たして音の鳴る効果を考慮してつくられたかどうかはわかりません。ただ、当時は米騒動や普選運動の激化、金融恐慌、暗殺事件など暗いニュースの多い不安定な世の中であり、政界に影響力を持っていた西園寺公望の別邸「坐漁荘」には、いくつかの防御策が講じられていることから、二階の床張りも侵入者対策の考えがあってつくられたのではないかという想像を膨らますことができます。

*一端は帯状で釘穴があり、他端を折り曲げ、その先端を尖らせた「かすがい」。幅木、縁板などの取り付けに用いられる。


憧れの階段教室

 明治村2丁目のレンガ通り15番地に建つ第四高等学校物理化学教室。この建物は明治二十三年(一八九〇)に金沢の第四高等中学校の文理化学実験教室場として建てられ、後に金沢大学へと引き継がれたものです。
 明治政府にとって西洋科学知識の国民への教育は重要な問題でした。小学校の教育科目に四科目の理科が入っており、中学・高等では実験まで含めた理科の授業が特別教室と呼ばれた建物で行われました。木造桟瓦葺平家建ての中央部分、一回り大きくなっている所が階段教室です。席を階段状に配置したのは、教師の実験を生徒が容易に見学できるように工夫された結果で当時のモダンな教室設計の一例です。この建物の設計者である文部省技師の山口半六、久留正道は明治二十八年に文部省が発行した「学校建築図説明及設計大要」の著者であり、その中の物理化学教室についての天井の高さ、採光、換気の記述※をみると、この第四高等学校の形式が設計基準として示されているのがわかります。
 教室内には大きな実験台がありその後ろには上下する二枚の黒板があります。そして注目すべきは黒板の内部にある化学実験用のドラフトチャンバーです。ドラフトチャンバーとは各種の薬品や用材を取扱う実験や作業で発生する有毒ガスや悪臭ガスを排除する設備で、当時の写真を見ますと黒板の後ろには引き違いのガラス戸が取り付けられており、その上部は給排のための穴があけられ煙突に繋がっています。明治二十二年に山口・久留コンビで建設された第五高等中学校(熊本県・重要文化財)の化学実験場にはドラフトチャンバーはみられず、これは現存する貴重な古いドラフトチャンバーの一つです。その頃の生徒達は階段状の机から身を乗り出して教授が行う実験に見入っていたことでしょう。
※「成ルヘク平家建トシ階段席ヲ設クル場合ニハ最高位置ニアル生徒ノ頭上ヨリ天井迄五尺以上ノ高トシ又教授台ノ机ニハ日光ノ注射ヲ充分ニシ室内各窓ニハ暗幕ヲ設ケ其他瓦斯抜及臭気抜等ノ設ケアルヘシ」。


木造建築におけるコーナーストーン

 明治七年、二十九歳の若き県令が山梨県で誕生しました。彼の名は藤村紫朗。藤村は公共建築の洋風化を強力に推し進め、その在任中に造られた建造物は百を越えたといわれています。そのうちの一つが明治村に移築されている東山梨郡役所(2丁目16番地)です。この建物を正面に見るとき、白い漆喰に映える隅部の黒い模様が目を引きます。同じく藤村の在任中に建てられた睦沢学校(現甲府市藤村記念館)においても、白い壁面のコーナーは、漆喰を盛り上げて黒く仕上げることで人目を惹く意匠となっています。
 コーナーストーンは、元来組積造建築の隅部を補強する目的で、壁面の他の部分より堅固に石を積み上げたものです。レンガ造の場合は建物の隅部に石を配し、石造の場合は隅だけにより大きい石を積むので、結果として壁面からやや出っ張ったり、石の目地がそこだけ異なったりします。つまり建物全体の中で、コーナーストーンの部分が際立って見えることになるのです。木造建築においては、コーナーストーンは構造的意味を持ちません。しかし西洋建築を初めて目にする明治初期の大工棟梁たちにとって、隅部が強調されたようなコーナーストーンは意匠上特に重要に思われたのでしょう、彼らは漆喰を盛り上げて色を変えたり、厚板でその形をかたどったりして、コーナーストーンを意匠として取り入れました。
 地元の職人たちによって造られたこの東山梨郡役所も例に漏れず、建物の出隅部分は漆喰を盛り上げたコーナーストーン状の装飾によって強調されています。切り石の長手方向と小口方向を交互に積み上げたように見せるこの手法は、明治初期の洋風建築によく見られます。西洋の組積造建築の構造的特色であるコーナーストーンは、日本における明治初期の洋風木造建築では視覚的効果を高めるものとして定着したのでした。
 


石の装い

 レンガ通りにさしかかると、石の意匠に包まれたどっしりとした建物があります。明治三十一年(一八九八)に北海道札幌市大通りに建てられた札幌電話交換局(2丁目21番地)です。電話が日本で初めて使われたのは明治十年で、明治二十三年に東京―横浜間に市外の電話交換が開始され、明治三十二年に東京―大阪間の長距離市外電話が完成しました。その頃、北海道は新天地開拓の意味もあって、比較的早い時期に電話が引かれました。当時、札幌は火災の多い町であり、火除のために幅の広い通りが計画されたように、こうした情報の要として重要である電話局舎を耐火にすぐれた石造で築きました。
 外壁は札幌郊外の定山渓で採掘した「札幌軟石」が用いられ、建物の一階から二階にかけての胴蛇腹にはアカンサス※のロゼット(rosette)があります。ロゼットは、古代文様ロゼッタの花(小さなバラ)に由来し、開花した花を真上から見たように、円の中心から放射状に花弁を配した文様をいいます。花弁の葉の数は三、四、五、六、八、十、十二、十六で表されるのが一般的で、古代においてはエジプト、アッシリア、ギリシア、ローマの建築や陶器に装飾され、初期キリスト教時代の石棺には十字と共に彫刻されました。また、花弁を広げた形から想像出来るように、太陽の象徴とも関連があるといわれています。このロゼットのような植物文様が使われたのは、おそらく人間の生活に最も身近なものであったと同時に、植物が四季で織り成す生命のドラマがあったからに違いありません。そして、人間が憧憬と祈りをこめて、植物の生命の展開に潜む活力を建物自体にも宿らせた証なのではないでしょうか。その小気味良く連続する文様からは、活気と動きが生まれるように感じられます。また視覚的なリズムによって、単調になりがちな外観をより豊かに印象深いものにしています。
 この札幌電話交換局が郵便局を経てその役目を終えた折、危うく養豚場に払い下げられるところを明治村の移築建造物第一号として安住の地を見出すことができたのは、その堂々たる姿所謂なのかもしれません。

※Acanthus  地中海地域、西アジア原産の葉アザミ。
 
 
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