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a la 明治村
 
2007年 春
  ・レンガ通りの京の町家
  ・光と影の競演
   
  2007年 夏
  ・日時計が伝えた時刻
  ・日本の燈台の曙
 
2007年 秋
・瓦屋根を見上げて
 
2007年 冬
・雪国のくらしの工夫
 
2006年
   
2005年
   
2004年
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明治村日記

 

a la 明治村

 

レンガ通りの京の町家



 二丁目レンガ通りにある京都中井酒造は、明治村の建物の中で最も古い時代のもののひとつです。中井酒造は元治元年(1864)に長州藩と会津・薩摩両藩が京都御所蛤御門で衝突した「禁門の変」の際にそれまでの建物が焼失した後、明治三年(1870)に再建されました。明治といっても改元されて間もなくのことですから、江戸時代の京都の町屋の佇まいを残しているといっていいでしょう。その特徴は、屋根に緩いカーブを持たせた「むくり屋根」、入口から奥へと続く「通り土間」などいろいろありますが、ここでは「つし(厨子)二階」と「虫籠(むしこ)窓」(写真1)に注目してみたいと思います。
 表通りから見た時、この建物は軒高が低く、平屋のように見えます。しかしここには、本格的な二階が作られなかった頃の古い形の二階「つし二階」(写真2)があります。つし二階は一般的に物置として使われることが多かったようですが、使用人の部屋が作られることもあり、京都中井酒造でも、物置と酒造り職人の蔵人(くらびと)の寝室に使用されていました。蔵人はこの部屋に入る時は階段を使わず、土間から梯子を使って昇り降りしていました。


※写真1 白漆喰が美しい虫籠窓


※写真2 「つし二階」のある
京都中井酒造の内部
       ※写真4 手前が東松家住宅
※写真3 虫籠窓内部の無双窓
                     奥が京都中井酒造

 虫籠窓は「蒸し子」とも書き、元々は木でできた窓の格子のことでした。虫籠や、セイロの下に敷く蒸し子に似ていることからこの名がつけられたと考えられています。壁や窓を漆喰で仕上げると火事による延焼を防ぐことができたので、虫籠窓の格子は漆喰で塗り込めて仕上げられています。虫籠窓の内側は木製のスライドできる格子板「無双」が添えられた無双窓になっていて全開にすると意外と明るく、当時の人々の工夫がうかがえます(写真3)。
京都中井酒造の全体的に一見質素に見える表構えは京都の町では隣近所ほぼ同じだったと言われています。京都の商人の気質として、出過ぎない、目立たない、がモットーとされており、そのためどの家も間口や軒の高さまで揃え、その結果町全体が統一された風景となりました。
 ところで、この建物の隣の東松家住宅も壁は漆喰で塗られていますが、色は黒です。一般に壁の漆喰の色は西日本が白、東日本が黒とも言われており、レンガ通りでは漆喰の色による地域差も楽しむことができます(写真4)。
 明治時代は、江戸時代のさまざまな制約から解放され、民家の造りが急激に変化した時代といえます。京都中井酒造のようなつし二階の形から本二階へ、更に東松家住宅のような本格的な三階建てへと、時間と場所を隔てて造られた二軒の建物を比較して眺めていただければ幸いです。


光と影の競演



 重要文化財の東松家住宅は、片側に土間を配した「通り庭の町屋」の形式を踏襲して増築されているため、土間は三階部分まで吹抜けています。また、度重なる増・改築により床面に段差ができるという難点を逆に活かし、変化に富んだ効果的な内部空間を創りだしています。
 東松家の茶室は土地の制約上、庭ではなく土間に面した二階に設けられています。さらに三階には京都の茶房を移したといわれる部屋もあります。生活の場に採り入れられた「茶の湯の空間」は、東松家住宅独特の内部空間と見事に融合し、開放感と遊び心に満ちたものになっています。茶室がなるべく奥深く位置するように動線が工夫されており、露地に見立てられた茶室への廊下は屈折して土間の上を走っています。東松家住宅の廊下は上部から欄間、外側に木格子を打ち付けた連子窓、腰無双窓を組み合わせたもので吹き抜けと隔てられています。土間の高窓からの光が白漆喰の壁に反射し、和らいだ明るさを奧へ伝え、欄間の「透かし」はそこを透る光に表情を与えています。利休は露地を「浮き世の外の道」と言ったと伝えられていますが、いわば露地は日常生活、世俗の世界との結界です。この廊下の連子窓を開け放つと一階の台所、店や女中部屋が丸見えになってしまいます。連子窓の障子は開閉という簡単な方法で、外部の景色や変化から隔絶した空間をつくる役割を果たしているのです。 

                
     ※写真1 障子に映り込む千鳥格子  ※写真2 無双窓からの光

 日中この廊下を通るとき、東松家住宅ならではの光が織りなす世界を体感できます。土間の高窓は当時、隣にあった東松家所有の二階建ての屋根の傾斜に合わせて造られています。左右の窓の高低差、廊下の屈折が光の入り方を変化させて木格子の陰影に濃淡ができ、障子には千鳥格子となって映り込みます(写真1)。また無双窓を僅かに開き光の量を絞り込むと、光沢のある床で白い光の筋があたかも木漏れ日の様に交差します(写真2)。
 窓は必ずしも採光、通風、換気の役目ばかりでなく「座敷の景色」にも活用されます。二階の廊下に沿って奥座敷に続く「次の間」に半円窓床があります。窓の内側には竹の両端を落とした割竹を組み入れた掛け障子が付けられ、そこに半月が浮かび上がります(写真3)。障子を透して入り込む明かりは人の心に物侘びた落ち着きを与えます。天候、時間帯、季節により光の入り方が異なるため、月の輪郭や建具の影がはっきりしたりぼやけたり変化します。半月が刻々と変わっていく様を味わうのも贅沢な時間の過ごし方といえます。障子により拡散された光は、室内全般を柔らかく照らしますが、昼光のない夜間においては、障子は壁の一部として人工照明光の反射面となります。電球の仄明かりが掛障子奧の砂壁をオレンジ色に輝かせます。

※写真3 掛け障子に
      浮かび上がる半月
それは半月というより満月、あるいは沈む前の夕日の輝きのようです(写真4)。この半円窓床は、室内意匠の中心的要素であり、床そのものを掛け物替わりとして鑑賞の対象とするものといえるのではないでしょうか。
 窓を開けることについて色紙窓の創始者とされる織部はこう述べています。
数寄屋之窓多ク明ル心得之事 何レモ明リ取ルベキトノ事也 色紙窓明リノ為バカリニ非ス 座敷ノ景ニ成ル故也
すなわち格別に機能を考えたのではなく、むしろ「座敷の景」として工夫したことを織部は明らかにしています。色紙窓とは、点前座の勝手付きの壁に中心軸をずらして二段重ねに開けたもので、窓を配置した姿がさながら色紙を上下に張った形相に似ているのでこの名があります。東松家住宅では、三階中央の座敷と一段高くなった奥の部屋との間に色紙窓が開けられています。二つの部屋には約90pもの段差があります。色紙窓が目線よりかなり高い位置にあるため、雨戸を閉めた夜間は、隣室の電球の明かりを透かし、まるで壁に埋め込まれた間接照明の様に見えます(写真5)。

             
  ※写真4 人口照明下での    ※写真5 3階にある色紙窓
         半円窓床


 現在、東松家住宅の二階と三階は建物ガイドでのみご覧になれます。      
当時の名古屋商人の豊かな生活に思いをはせながら、先人の巧みな技と偶然が生んだ素晴らしい「光と影の競演」をご堪能下さい。

   参考文献
    ・中村昌生「古典に学ぶ茶室の設計」建築知識
    ・林 雅子「障子の本」木耳社  ほか



日時計が伝えた時刻



 京都七條駅から市電に乗り品川燈台駅で下車すると、三重県の菅島にあった煉瓦造の菅島燈台附属官舎(重要文化財)と燈台で使用されていた日時計(複製品、実物は1丁目13番地三重県庁舎「明治の時計」展示室にて展示)があります。何故燈台に日時計が設置されていたのでしょうか。
 燈台にとって日時計は装飾品ではなく必需品でした。燈台では、夕方の点灯、明け方の消灯の業務の際に正確な時刻を必要としました。しかし、開国したばかりの日本では現在のようにラジオやテレビなどから簡単に正確な時刻を知ることが出来ず、燈台では正確な平均太陽時(時計の示す時刻)を知るために日時計を使用していたと考えられます。
 日時計は「日き儀(にっきぎ)」とも呼ばれ、太陽の日周運動による物体の影の長さや方向の変化から時刻(真太陽時)を知ることの出来る最も簡単な仕組みの時計の一つで、古代では季節などを知る天体観測器としても使用していました。
 しかし、真太陽時では同時刻の影の位置が季節によって異なるため平均太陽時を定めることが出来ませんでした。そこで日時計から平均太陽時を求める場合には以下のことに留意して日時計を設置しました。@日時計の針に相当する三角形の板は正しく南北の方向に向け、傾きはその土地の緯度に正確に合わせる。Aこの時の南北とは、磁石の南北ではなく北極星で合わせた(合わせられない場合は磁石で偏角を測った)正確なものとする。このように日時計を設置し、真太陽時と平均太陽時との差(均時差)を時差表に照らし合わせて日時計に加えれば一分以内の誤差で時刻を知ることができました。

※菅島燈台附属官舎と日時計


※菅島燈台附属官舎前に
  据えられている日時計



※三重県庁舎に展示されている
  日時計

※日時計が示す時刻

※「時差表」『時計読本』
 日本の時刻法は天智十年(678)に水時計を新天文台に置き、鼓や鐘を打ち鳴らして時を知らせたことに始まったとされています。江戸時代には、夜明けから日暮れ・日暮れから夜明けまでをそれぞれ「六・五・四・九・八・七」の六辰刻(計十二辰刻)とし毎辰刻に鼓又は鐘で知らせましたが、このような時刻法は今日のように分や秒を正確に示すものではありませんでした。
 明治になり汽車・汽船・電信等の組織が発達してくると正確な時間が必要となり、明治政府は明治六年(1873)、旧暦を廃すと同時に時刻も昼夜を二十四等分した現行の時刻法に改めました。汽車・電信の時刻は東京天文台から東京中央電信局内電信試験係の自働時報機に接続され電信で鉄道省東京通信所、中央郵便局等に伝えられました。毎日(日曜・祭日を除く)正午三分前になると全国の鉄道の電信線も郵便局の電信線も一般の通信を休止して東京に結ばれ、正午の時報を受信しました。船舶に関係する横浜、門司、長崎などの港務部でも同様の方法により時刻を知ることが可能でした。
 しかし、海を照らす燈台の多くは便宜上、僻地や離島に建てられることが多くこれを受信することが不可能で、正確な時刻を知るために必ず日時計が備えられました。明治十四年に改定された『守燈方示教総則書』第五章、第二条の「日時計ヲ以テ時刻ヲ制定スル事」では「消灯ノ刻限ハ…中略…燈室ノ時計ニテ定ムヘシ右時計ヲ精密ニナシ置為メ首員ハ少クモ一週間ニ一度其時刻ヲ日時計ノ時刻ニ比較シ各所ニ備ヘ置ク時差表ノ如ク日時計ヨリ増減スヘシ且住家ノ時計モ右同様精密ニナシ置クヘシ」と定められています。日時計は燈台、そこでの仕事に従事する職員に時刻を知らせ、船舶の安全を管理するのみならず職員の生活にも欠かせない大切なものであったことがうかがえます。
 現在、菅島燈台附属官舎では、菅島燈台と同県にあり三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった神島燈台の回転レンズを展示しています。また、据えられている日時計は正確な時刻を示していますので皆さんの時計と比べてみてください。

   参考文献
    ・『時計読本』米国ウオルサム時計会社 1930
    ・海上保安庁灯台部編『日本燈台史』 1969 社団法人燈光会



日本の燈台の曙



 明治村3丁目、入鹿池を望む高台の先端にある品川燈台は、日本に現存するレンガ造燈台の中では最古のものになります。
        ※品川燈台
 この燈台は、明治三(1870)年にフランス人技術者の指導により東京湾沿岸に建てられた四基の燈台の内の一つで、その基本構造は、入り口廻りや基礎、螺旋階段などに石材を組み込んだ円筒形のレンガ造になっています。また、建築材料であるレンガは、当時建設中であった横須賀製鉄所のレンガを使用しています。そして、燈室の枠と屋根は、それぞれフランスから輸入された砲金と銅板が用いられています。

※基礎部分

※内部階段

※品川燈台の解体材レンガ

※レンガに押された
「ヨコスカ製鉄所」印
 この建物の特徴は、明治十九(1886)年以前のレンガ造というところにあります。なぜなら、翌年の明治二十(1887)年を境にして日本のレンガは大きく変化したからです。その契機は、東京に日本煉瓦製造株式会社が設立され、レンガを高温で焼いて製作する高温焼成の技術が導入されたことです。それ以前の日本のレンガは、薪炭を燃料として700〜800度程度の比較的低温で焼かれていたため、レンガが焼き締まっておらず、色も赤より薄いミカン色をしていました。レンガに限らず陶器は、高温で焼くほど土の粒子が強く結びついて細かい隙間が減少して密度が高くなります。これを焼き締まった状態と言います。そのため、焼き締まっていない当時のレンガは、隙間が多く水を吸収しやすいと考えられます。それに対して、明治二十(1887)年に導入された高温焼成の技術で作られたレンガは、石炭を燃料として1100度程度の高温で焼かれているためレンガが焼き締まっており、密度が高く水を吸収しにくいレンガとなり、色は赤色を呈しています。

※レンガに発生した空隙(孔)

※右・明治初期
左・現代
 レンガは、内部に水が浸入すると、中の成分が溶け出して表面に白い結晶が現れ、内部に亀裂や空洞が発生します。また、寒冷地においては、中に浸入した水が氷に変化して体積が膨張することにより、レンガを破壊してしまいます。そのため一般的に、水が浸入する隙間が少ない高温焼成レンガは、隙間が多い低温焼成レンガよりも長持ちすると言えます。
 また、明治十九(1887)年以前は、厚みのあるレンガを作ることが困難であったため、現代のものより1〜2センチ程薄い形のレンガが製作されていました。その後、高温焼成技術の導入により厚いレンガを造れるようになりました。大正十四年にはレンガの大きさは、JES規格で幅10センチ・長さ21センチ・厚さ6センチに規定され、それが現在のJIS規格に踏襲されています。
 このように、当時のレンガは、色や大きさ性質など現在のものとは若干違っています。これらの点にも注目して見学頂くと、いつもとは違った楽しみ方が出来るのではないでしょうか。また、その際には菅島燈台附属官舎にある品川燈台解体材レンガの展示を是非ご覧下さい。
※品川燈台は明治村移築の際、建築基準法の強度規定の問題により構造が煉瓦造からコンクリート造へ変更されました。

   参考文献
    ・素木洋一 『図解工藝用陶磁器−伝統から科学へ−』
            1970 株式会社技報社
    ・『レンガ造文化財の保存修復
          平成十年度文化財保存修復研究協議会記録』
            1999 東京国立文化財研究所



瓦屋根を見上げて



 4丁目に建つこの木造二階建ての建物は、大正8年(1919)、久保田安雄氏の住宅としてブラジル・サンパウロ州レジストロ市に建てられたブラジル移民住宅です。明治41年(1908)以来、ブラジルに渡った移民たちがサンパウロ周辺で慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねた歴史を、静かに物語っています。
※ブラジル移民住宅
 久保田氏は結婚直後の大正6年(1917)、長野県からブラジルへ移住します。長男も生まれた結婚3年目の25歳と19歳の若い二人は、この地に根を下ろすことを決意し、住宅の建設を始めます。同じ入植者の大工棟梁の指導の下、二人の大工と久保田氏夫婦は建築資材などすべてを自ら調達するため、周囲の原始林を切り拓きます。堅いカネーラなどの大木を運び出し、鋸(のこぎり)、鉞(まさかり)、手斧(ておの)で用材に加工するところから始まりました。「壁はジュサラ(椰子の一種)を割って、山からシッポーの蔓を取って来て縄の代わりにして、ジュサラを結び合わせて泥と藁を練った壁土を下塗りにしてコテで上塗りをしたのです。(原文)」と久保田氏が回想しているように、現地の材料を使い和風の工法で建てられたものです。しかしその一方、2階に設けたベランダや、片開き板戸を付けた窓には土地の風土に合わせた素朴さがただよっています。そして最も特徴的なのが、屋根に葺かれた現地産のスパニッシュ瓦です。スパニッシュ瓦とはスペイン産の洋瓦のことで、竹を割った形に似ているので、わが国では俗に「竹丸」とも呼ばれていました。下丸瓦に上丸瓦をかぶせて葺く方法で、日本の本葺き瓦のように、山と谷が別々の瓦で構成されています。スペインに行くとその土地の土を焼成した赤褐色の瓦が目につきますが、当時ブラジルにおいても一般的で調達可能な瓦でした。
 ブラジルでこの住宅が建てられた大正期、実は日本においてスパニッシュ瓦を使った洋風建築が大流行します。当時アメリカで流行していたスペインゆかりの様式(ミッション様式)と共に、アメリカのスパニッシュ瓦(当初アメリカ瓦と呼ばれていた)が日本に輸入され、大正モダン様式の象徴的な建築材料として、爆発的な人気を博したのです。上丸瓦と下丸瓦の組み合わせが屋根に立体感を持たせ、その明るく鮮やかな茶褐色が洋館を誇示したようです。屋根全体ではなく、建物の一部や庇に使うという使われ方もされるほどの人気でした。この流行が契機となり、大正末期、三州瓦の生産地、愛知県三河地方で日本独自の瓦が開発されます。それがS形瓦です。「S」はスパニッシュに由来しているとも言われていますが、スパニッシュ瓦の上瓦と下瓦を一体化させS字形をしているところからS形瓦と呼ばれています。山と谷を一体とした一枚瓦で形成させた結果、雨仕舞い、施工性、コストパフォーマンスなどが著しく向上して普及しました。スパニッシュの流行が日本に新しい瓦をもたらしたのです。

※スパニッシュ瓦の葺止図

※本葺き瓦

※S型瓦(葺上図)
 このS形瓦、今回新たに明治村に移築公開される芝川又右衛門邸で見ることができます。今回の移築に際しては特注のS形瓦が使われています。
 「ブラジル移民住宅」と「芝川又右衛門邸」。明治村に移築されたこの二棟がスパニッシュ瓦というキーワードで繋がり、明治から大正、昭和にかけて、スペイン・アメリカ・日本・ブラジルとグローバルに地球を巡る建築デザインの風を想像させます。是非、明治村で一際目を引くオレンジ色の屋根瓦を探してみてください。
※ブラジル移民住宅のスパニッシュ瓦

 参考文献
  ・坪井利弘 『日本の瓦屋根』 理工学社



雪国のくらしの工夫




写真1
 明治村5丁目に高田小熊写真館(写真1)が建っています。この写真館は、新潟県の上越市(旧 高田町)から移築されたもので、明治41年に建てられました。新潟県は日本海に面しており、降雪量がとても多く、豪雪地帯として知られています。この写真館を見ますと、商売、生活の両面で雪に対する工夫が見られます。
 内開きの玄関の扉を開けますと、正面に洋風の応接室、右手には和室が見えます。明治後期以降の建物に多く見られる形式で、接客部分をハイカラな洋風にし、居住空間は昔からの住みやすい和風となっています。明治村内では、1丁目にある学習院長官舎にも同じようなスタイルが用いられています。
 玄関の左側には小さなスペースがあります。ここはこの地域で冬期によく使用するスキーや運搬用のソリを置くスペースです。ここにはお客様用のコート掛けも設置されていたそうです。
 2階にあるスタジオを見てみましょう。外観から、屋根が採光のためにガラスになっている(写真2)ことがわかります。このガラス屋根は「スラント」と呼ばれ、均一で優しい光が入る北側を向いています。このスラントから入る光を白と黒のカーテンで調節して、写真を撮ります。
しかし冬になり積雪すると、スラントからの光線が遮られてしまいます。また、雪の重みで家が傷む恐れもあります。ですから、撮影のためにも、生活のためにも、この雪を取り除かなければなりません。そこで、普段は目立たぬようにスタジオの隅に収納したハシゴを用い、スタジオ上部の小窓から屋根に出て、雪を下ろしたそうです。
写真2
 このようにこの小熊写真館は、単に明治期に建てられた写真館というだけではなく、雪国の建物としての特徴も見ることができます。
 また、この地域では屋根から下ろした雪と、地面に積もった雪とで、2階の窓辺りまで達することも多く、2階の窓を玄関の代わりに出入り口として使用することもあったそうです。
 この小熊写真館が建っていた旧高田町では、メインストリートには雁木と呼ばれるものが取りつけられています(写真3)。雁木は町屋の軒から庇を長く張り出し通路としたもので、商店街に設けられたアーケードに似ています。東北をはじめ、日本各地の豪雪地帯によく見られますが、中でも新潟県のものは有名です。積雪時には雁木に障子を付けて、家の内部へ雪が入るのを防いだともいわれます。積雪量は年によって大きく異なりますが、今なお豪雪地で活躍している工夫のひとつです。
写真3
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