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近代日本の幕開け

近代日本の幕開け

1639年の鎖国以来、日本は200年余に亘り、オランダを除く、海外諸国との交渉を断ってきた。そのあいだに欧米では、18世紀中期ころに始まった産業革命によって、商工業の目覚しい発展がみられた。その結果、イギリス、フランス、アメリカなどの列強国は、海外に植民地をもとめて、市場獲得に走り、その矛先を東洋に向けた。
その影響はインド、中国を経て日本にも波及し、日本の港に当時黒船と呼ばれた蒸気船がしばしば現れて、開港を迫った。遂に、1854年アメリカ艦隊を率いたペリーの要求する日米和親条約が結ばれて、開国の一歩を印したのである。

いざ開国してみると、福沢諭吉の「西洋事情」に記されたように、欧米の文物は著しく進歩しており、政治体制から工業、商業ならびに文化、一般社会生活に至る まで、近代化が進んでいることを知った。日本もヨーロッパなみの近代化を計る必要があった。

徳川政府は倒れたが、江戸時代の蓄積のうえに、1868年政権を引き継いだ明治新政府は、版籍奉還、廃藩置県などの措置をはじめ、次々に新政策を実行して、江戸時代の地方分権体制を改め、中央集権の政体を確立した。
その力を背景として、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」を旗印に、国の近代化政策を進めたのである。古来の日本文化とはまったく異質のものを、西洋から受け入れるために、欧米から人を招いて教えを乞い、学問から産業まで、同時進行の形で導入した。

明治5年、大綱をフランスの学区制に範をとって学制が公布され、翌年師範学校も創られて、小学教育を主体とした国民教育の制度が樹立された。同じく6年には、東京大学の前身である開成学校も開かれて、多数の外国教師の許で高等専門教育が開始された。新しい中央集権体制の円滑な運用のためには、交通通信手段の向上がなくてはならず、その導入も早急に進められた。明治2年、東京・横浜・長崎間に、電線が張られて電信が開通し、4年にはそれまでの飛脚に代わって、東京・京都・大阪の間で西洋流の郵便制度が発足した。鉄道が敷設され、明治5年10月新橋と横浜駅が開業して輸送が始められた。二本の鉄路の上を走る列車は、陸蒸気と呼ばれて、人々の耳目を集めた。

明治5年新橋から築地にかけて大火があり、銀座一帯が焼け野原になると、復興のための街区計画が英国人技師に依頼され、耐火建築群としての銀座煉瓦街が実現した。すなわち歩車道は並木で分けられ、両側の町並みは、石と煉瓦で造られた。夜はガス灯が輝いて煉瓦敷の歩道を照らした。一般庶民にとって、洋風の煉瓦造の 建物は、急には馴染めなかったが、ともかく我が国最初の洋風の街区の実現に努力 が払われた。

幕末から始まった工場制手工業によって、原材料の入手と製品の販路が広がり、様式機械の導入もあって日本の工業は発展していった。富岡製糸場など官営工場が開設され、鉄道、工場、官公庁、商社の建築など色々な建設に必要な、煉瓦・鉄・セメント・ガラス等の輸入が始まった。新しい資材の生産体制は、実現までに年月がかかったが、先ず明治元年に発足している。

明治維新を推進した若い政治家、実業家連と、列強各国から招かれた、お雇い外国人たちのエネルギーによって、日本の近代化の礎が、着実に築かれていったのである。