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明治時代から走り続ける蒸気機関車

蒸気機関車12号・9号・三等客車

明治5年(1872)、日本で初めての鉄道(新橋-横浜間)が開通。その頃、煙をあげて走る蒸気機関車は「陸蒸気」と呼ばれていました。
現在の明治村では、当時から走り続けている蒸気機関車12号・9号が『SLなごや駅』と『SLとうきゃう駅』の間を繋いでいます。(走行する蒸気機関車は日によって異なります。)
実際に乗ることができる客車も、明治41年(1908)製造のハフ11、明治45年(1912)製造のハフ13・14の計3両あり、機関車も含めてすべて明治時代の車両による編成です。

村内所在地 4丁目43番地
動態展示開始年 昭和49年(1974)

目次 - Index -

    車両一覧

    蒸気機関車12号

    12号は鉄道開業の2年後、明治7年(1874)イギリスから輸入された蒸気機関車です。輸入当初の車輌番号は『23』で新橋―横浜間を走り、明治42年の車輌の改番で『165』、明治44年に尾西鉄道に払い下げられ『12』となりました。
    尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した後も、番号はそのまま引き継がれ、昭和32年まで使用されていました。
    ※2019年9月からオーバーホール(大規模な修復)を実施し、2023年に運行を再開。

    製造所:イギリス シャープ・スチュアート社(Sharp Stewart & Co.)
    長さ : 7,995mm
    重さ: 空車時17.49t、運転整備時21.43t
    形式: 1B形タンク式

    蒸気機関車9号

    9号は明治45年(1912)に米国ボールドウィン社にて製造され、大正2年(1913)より富士身延鉄道にて富士-大宮町(現:富士宮)間において運行していました。
    昭和11年(1936)、日本鋼管鶴見製鉄所(現:JFEエンジニアリング㈱鶴見事業所)に移籍・使用した後、昭和48年(1973)、明治村に譲渡されました。
    ※2023年7月より、オーバーホール実施のため村外へ搬出。修理期間は約2年を予定しています。

    製造所:アメリカ ボールドウィン社(Baldwin Locomotive Works)
    長さ:8,065mm
    重さ:空車時19.3t、運転整備時23.05t
    形式:C形タンク式

    三等客車ハフ11・13・14

    ハフ11は青梅鉄道で「メ4」として使われた後、大正13年に高畠鉄道(山形県)に譲渡され「ハ2」となり、さらに昭和11年雄勝鉄道(秋田県)で「ハフ11」として使用されました。
    また、ハフ13・14は新宮鉄道(和歌山県)で使用され、同鉄道の国有化に伴い鉄道省の所属となった後、昭和17年ハフ11と同様雄勝鉄道に移り、「ハフ13・14」となりました。

    三等客車ハフ11
    製造年:明治41年
    製造所:天野工場
    長さ:8,270mm

    三等客車ハフ13・14
    製造年:明治45年
    製造所:新宮鉄道株式会社
    長さ:9,595mm

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    名古屋城内に置かれた陸軍名古屋鎮台の附属病院。「衛戍」とは陸軍の駐屯のことを言います。明治村には、管理棟の半分と病棟1棟、それらをつなぐ渡り廊下が移築されています。建物は木造平屋建ての桟瓦葺きで、周囲に吹き放ちのベランダをめぐらせています。非常に開放的で明るく、清潔感にあふれた印象です。
    病院はもともとは6棟の建物が中庭を囲んで配される分棟式の配置をとっていました。これは洋式大病院の典型的な形式で、日本赤十字社中央病院(4丁目35番地)にも踏襲されています。

    名古屋衛戍病院

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    東京・文京区本郷にあった屋号を「喜之床」と称する理髪店で、明治後期から大正初期にかけての商家の形式をうかがい知れる建物。店の正面をガラス張りにしているのは当時の新しいスタイル。床屋は、ハイカラにはバーバーともいわれ、庶民の暮らしに欠かせない店屋でした。
    この建物の2階二間を明治42年(1909)から間借りして家族と生活していたのが、歌人石川啄木です。処女歌集『一握の砂』はここで暮らしているときに出版されました。

    本郷喜之床

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    この建物はガラス工場施設の一部で、当時は大きな窯場や倉庫が隣接していました。明治政府は、明治9年(1876)に民営のガラス工場、品川興行社を買い上げて国営工場としました。施設を拡張・整備し、イギリス人の技術者たちを雇い入れて、需要の急増した板ガラスやガラス瓶などの国産化を急ぎました。
    明治18年(1885)には再び民間のガラス会社に移管され、明治41年(1908)には高峰譲吉が共同出資した三共合資会社が買収して、タカジアスターゼ(胃薬)などを作る製薬工場になりました。いろいろな変遷を経てきた建物ですが、明治初期の洋式煉瓦造工場の姿をよく伝えています。

    工部省品川硝子製造所

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