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近代建築の礎

近代建築の礎

遡ること一千余年の昔、日本の建築は仏教とともに中国大陸より渡来した建築様式と技法の著しい影響をうけて、飛鳥・奈良の仏教建築興隆の時代を成就した。 平安時代に同化をすすめ、日本の木造建築は成熟する。鎌倉・室町時代に再び中国の様式を反映し、また地方化と多様化がすすむ。
桃山・江戸時代に城下町の成立がみられるが、城郭はその中心であり、書院造が発展し、また町並みが形成される。しばしば訪れる火災に対して、塗屋造、土蔵造の建築が流布して、明治時代に引き継がれる。

幕府、雄藩、明治の維新政府が、まず着手したのは、洋式工場の建設であった。 土木・建築の専門家が日本に来て建設を指導した。
長崎・横浜の製鉄所、富岡の製糸場などが造られて、そのおり、煉瓦の製造法が土地土地に根づいた。 また、開港地の外国人居留地では、住宅・商館・教会堂などエキゾチックな建築が人々の目を引いた。

政治経済の近代化に伴い、庁舎、学校建築から商業建築としての銀行・会社などの新しい建築が主役となり、社寺建築を凌駕する。
民家や地方の建築までは、外国人の手が及ばなかったが、地元の志ある工匠によって、見よう見まねで、洋風建築が建てられた。
それは和魂洋才の、日本の伝統的技術を駆使して、木と漆喰などを使った和洋混交のものであった。 これらの様式は擬洋風とも呼ばれている。

幕末の築地ホテル、明治初年の第一国立銀行、三井組などは擬洋風建築の代表例であり、地方の役所の建物も、次々に擬洋風の庁舎を造った。
この傾向は明治20年頃まで見られた。

なんといっても、明治政府の中央諸官庁は、本格的な洋風建築を求めた。西洋から建築家を招いて、彼等に主要な建築、例えば国会議事堂などの設計も依頼している。 明治10年来日のコンドルは、工部大学校造家学科の講師として、次代を担う日本の建築家を育成した。
一方彼は、政府の要請で、鹿鳴館、帝室博物館を設計し、ニコライ堂、岩崎邸から海軍省までも手掛け、日本における正統的洋風建築の数々を建築した。

日本を木の文化の国というなら、ヨーロッパは石と煉瓦の国である。
ギリシャ・ローマの古代にクラシック(古典)様式が成立し、中世にゴシック様式が栄え、近世のルネサンスで古典が復興される。
19世紀は古典主義、ロマン主義及び折衷主義、と流動するが、その歴史は日本人に依って短期間に学習された。 
明治20年代に入ると、コンドルの弟子達が日本の建築界の中心として、活躍を始めた。
日本銀行本店、下って赤坂離宮(迎賓館)、東京駅など今日に残されている。

住宅建築にも文明開化、洋風の影響が見られた。 高官の住宅に和館と洋館の併設がみられ、中流住宅では一部屋だけの洋間が設けられた。
また、紙障子に代わって、ガラスのはめこまれた建具が使用されるようになった。
室内の照明は、石油ランプ更にガス灯から電灯と移り変わるのである。
一方で、濃尾地震、酒田地震などの被害を学問的に追及し、耐震構造が進歩した。

洋式工場の建設から始まった日本の産業革命は急速に進展し、その成果は、鉄・ガラス・セメントの国産化を確実にし、建築界が次に迎える時代の素地となるのである。 大正12年(1923)の関東大震災は明治建築にとっての一大試練となった。
即ち煉瓦石造の建築と伝統的な土蔵造は大破した。 以後これらに代わった、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の近代建築にその席を譲る。
すなわち長い歴史を持つ量質ともに優れた煉瓦と石の西洋建築の学習と実践は、明治の45年間で終わるのであるが、これが日本における近代建築発展の飛躍台となった。